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(六)カルタ遊技場面と慶長年間制作説の是非

大和文華館の学芸員として成瀬の後輩になる林進は、平成三十~三十一年(2018~19)に「国宝『婦女遊楽図屏風(松浦屏風)』の再評価〔前編〕〔後編〕」[1]を表して、矢代の慶長年間(1596~1615)制作説を再評価している。論文の付記に依れば、林は、平成十六年(2004)年に未完成で終わった草稿を、自分の怠惰を反省して十二年後に公表したそうだが、この間の研究の進展をどこまで追いかけたのかが不明である。

 

林の著述は、平成年間(1989~2019)、特にその後期に小田茂一が発表してきた十八世紀初頭制作説に一顧だにしないし、近藤利江子や壽川美由紀の専門的な業績もその存在にすら気付いていないように見える。その他のものも含めて、先行研究への目配りが足りないところがあり、実証的な研究とするわりには先行業績の検索が不足しており、林がここで提示する自説の論拠は、林自身が修理監督であった平成年間(1989~2019)前期の修理で発見された下絵の「むらさきかのこ」の文字が慶長年間(1596~1615)の『雁金屋染物台帳』の文字と類似している点に置かれている。老大家の林から見れば、平成年間に研究を進めて成果を公表している研究者は平成年間(1989~2019)前期の修理での林の業績を凌駕することなどできないに決まっているので黙殺して差し支えない若造たちに見えるのであろうけれども、長い休業期間中に後発の研究者の仕事が林を追い抜き、先行研究に豹変しているのであり、論文発表の平成三十年の時点では、それを無視して平成十六年(2004)年の未完成の旧稿に多少の手を入れて公表された論稿は、十五年以前の古色、いやその内容は四半世紀以前の匂いを帯びており、今日の学界に提出される業績としては評価に耐えないのではないか。

 

林は、まずこの屏風の右隻、左隻の判断に際して、左右両端を高く盛り上げ、中央を平坦に描く伝統的な画法であり、「《双六盤》と《カルタ遊び》を六曲一双の両端に配置するよりも、両隻を合わせた中央部に、遊びのモティーフである《カルタ遊び》と《双六盤》及び《駒袋》を連続させて配置する方がより安定した構図になる」としている。林によれば、「《双六遊び》に飽き、双六盤〔盤上には白と黒の駒(コマ)各十五個、采(サイ)二個、采を振り出す筒(ドウ)一個がある〕を片づけもしないで、そのまま放置して〔左隻第一扇〕、今は《カルタ遊び》に打ち興じる二人の若い遊女が描かれている〔右隻第五扇・第六扇〕。」のである。私はこうした林の理解に違和感がある。その最大のポイントは、上に述べたように、カルタ遊技を行っている遊女と禿(かむろ)の二人を描いた画面が示す圧倒的な孤立感である。こういう空気感のある画面を二枚の屏風の中央に配したのだとしたら、絵師の構図の意図がさっぱり理解できない。また、林が言う、双六盤とカルタで構成される「遊びのモティーフ」というものがどう存在するのかも理解できない。遊女の「遊びのモティーフ」は他にも喫煙とか、恋文のやり取りとか、三味線弾きなど、屏風の全面にさまざまに描かれているのであって、双六盤とカルタ遊びだけを取り出してつなぐのであれば、それは遊び一般ではなく「賭博系遊技のモティーフ」であろう。だが、そのようなモティーフがこの絵にあるとは理解できない。

 

また、林は、遊技後の状態を示す双六盤は、カルタ遊技を行っている「二人の若い遊女」(遊女と禿(かむろ)の二人の見誤り?)がそれ以前に使用して、「片づけもしないで、そのまま放置して」おいたものでカルタ遊技と結びついており、「連続させて配置する方がより安定した構図になる」としている。こう解すれば、確かにカルタと双六盤は近くにあったほうが良いであろう。ただ、私には、遠景として立体感をもって描かれている双六盤と、近くに正面性を失わないように平面的に描かれたカルタ札に、林の言うような関連性は感じられない。そもそも、双六は二人で行う遊技だが、カルタは三人以上で行う遊技であり、二人の遊技者のままで双六盤からカルタ札に移行するというのは不自然である。それは、「二人で将棋を打っていて、それに飽きて、将棋盤や駒を片付けもしないでそのまま放置して、二人で麻雀を始めた」とか、「卓球の競技に飽きて、片付けもしないで、二人でバスケの競技を始めた」というようなものである。言うまでもなく麻雀は四人で行う遊技、バスケット・ボールは一チーム五人、両チームで十人のスポーツである。二人の遊技者ではできない。江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)のカルタ遊びも同様である。

 

さらに、松浦屏風では、衣裳には着用している皺が描かれているのにその文様には皺が寄ったゆがみがなく、模様が整然と並んで描かれていて正面性が強調されている。小田が指摘しているように、この正面性の強調は、その是非については別論もあり得ようがこの絵に固有の大きな特徴であり、床にある硯箱や紋標オウル(金貨)の四のカルタ札もその一例である。ところが、双六盤には正面性を確保して描こうとする絵師の関心がなく普通に立体的に描かれている。別の言い方をすれば、硯箱やカルタ札は画中でそれを用いる遊女の視線からの主題の絵であるが、雙六盤は屏風絵の外にいる鑑賞者の視線からの背景の絵である。これだけ視点がずれていると、両方とも一人の絵師が描いたと理解することは難しくなり、あるいは後者は後世、別の画風の絵師による加筆であろうかという疑問も出てくる。一般に遊里での遊興の有様を描いた「邸内遊興図」では、その中に中国画に伝統の「琴棋書画」を描き込むことになっている。その観点で「松浦屏風」を見ると、「琴」に相当する三味線、「書」に相当する手紙はあるが、「棋」と「画」がない。カルタ札を「画」に見立てることは辛うじてできるが、「棋」は見つけられない。そこでこの屏風の完成後に販売に関わった誰かが、それならば彦根屏風のように双六盤の遊技を加えれば価値が増すと思い立ち、その加筆を別の絵師に依頼したところ、遊女図は難しいなどの諸事情で誰でも描ける双六盤だけが加えられた。この様なストーリーが頭に浮かぶ。この辺も絵画史に素人の私は明快な見解を持ち得ていない。

 

また、林は「双六盤〔盤上には白と黒の駒(コマ)各十五個、采(サイ)二個、采を振り出す筒(ドウ)一個がある〕」とする。先人の研究での史料の見間違いをいちいち指摘するのは私の好まないところであるが、私の見る限り、盤上には駒がもはや勝負のついた局面を示すことなくごちゃごちゃと置かれているだけである。これは遊技後の終局場面図として成立していない。林は、この双六盤の絵を見て、遊女と禿(かむろ)が遊びに飽きたと説明しているが、どうして「飽きた」とまですでに離席した遊技者たちの心理が深読みできるのかまったく理解できない。これは単なる林の空想に過ぎないのではないか。また、林は二人が双六の遊技具を「そのまま放置して」とも説明しているが、双六盤上の駒の配置はまるででたらめで、到底、遊技の終局場面図にはなっておらず、これで「そのまま放置して」ある状態だと理解することはできにくい。これはなぜ、遊技者が例えば一休みして別席で喫茶するつもりで席を離れ、その後に戻って対戦を再開しようとしている休憩時間の図ではないのか。こういうありうる可能性はなぜ無条件に除外されるのか。私には、この絵から林のように「放置」を読み取ることはできない。

 

この双六盤の部分を描いた絵師は粗略で、実際の遊技から見ると不自然なものである。屏風全体のバランスの中でこの箇所に置かれる必要性も見えない。つまり、双六盤とカルタ札を屏風絵の絵師自身によって当初から同じ空間に描かれて一体の空気感を表現していると林のように理解するのには絵画の理解として無理がある。

 

古来、名画は謎を生み続け、多様な理解、解釈を生じさせるものである。「松浦屏風」もその例であろうか。小田の解析を得て多くの謎は明らかになったが、その代わりにまた新しい謎が生じてくる。謎はなお消えない。絵画の歴史にも、また技法にも全く素人の私が、双六盤の部分は後世の加筆などという新説を提出することには大きなためらいがあるが、カルタ遊技に深く関わる部分であるので越境する言動の許しを請うて問題提起をするしかない。叱責と過誤の訂正の教えを待ちたい。ただ、私の守備範囲のカルタ遊びの図像に限って言えば、「松浦屏風」は、カルタ札を描いた史料としては唯一の南蛮カルタの残存図像という貴重な遺品の可能性があるにしても、カルタ遊技の史料としては慶長年間(1596~1615)の作ではなく、伝承を誤解した後世の絵師の不完全な作品ということになる。大和文華館の初代館長、矢代幸雄が提唱し、その後、一般には受け入れられていないが、大和文華館サイドからは繰り返しその妥当性が主張されている慶長年間(1596~1615)制作説であるが、カルタ遊技史研究の立場からは同意することができない。

 


[1] 林進「国宝『婦女遊楽図屏風(松浦屏風)』の再評価〔前編〕〔後編〕」『美術史論集』第十八号、第十九号、神戸大学美術史研究会、平成三十年、三十一年。