そして、あれこれ調べているうちに、決定的な問題点が見えてきました。それが「持統天皇」の表記の問題です。この問題に最初に気付いたのは、もはや恒例になっていた物品歴史学の研究手法、江戸時代初期、前期の「持統天皇」札を全部机上に並べてチェックした時でした。机上の「かるた」札の中に、何枚か「持綩天皇」となっているものがありました。最初はその意味が分かりませんでしたが、あまりに多いので、念のために、江戸時代初期の最も重要視された版本、本阿弥光悦の『百人一首』を見ましたところ、それが「持綩天皇」でした。同じく、版本の『角倉素庵筆百人一首』も、『尊圓百人一首』も「持綩天皇」でした。

私は最初この字が読めませんでした。生れてはじめてお目にかかった文字でして、頼りの『漢和辞典』には載っておらず、読み方が分からないのですから他に調べようがありません。ただ、ネットではこういう難字を解読する手立てがあります。それを使ってとうとう突き止めました。それによると、「綩」の字の読みは「えん」、意味は「冠の緒」や「赤い衣服」だそうです。そしてこの字は今では廃文字です。ですからワープロではいくら探しても出てきません。『百人一首』では作字してもらいました。

これではっきりしたのは、江戸時代初期、前期の「百人一首」は、版本も、それを手本にした「かるた」札も、「持綩天皇」という表記であったことです。ところが、江戸時代前期の後半、元禄年間に近づくころから、「持統天皇」という表記が増加するようになりました。「かるた」札でもこの表記のものが増えましたが、版本も増えました。延宝八年(1680)の菱川師宣著画『おぐら山百人一首』、天和三年(1683)の細川幽斎著、中院道勝補訂、菱川師宣画『百人一首像讃抄』は「持統天皇」(但し、「統」のつくりの下部は二本足ではなく「荒」字のような三本足)です。どうやら、江戸時代初期、前期には、京都、大坂の市中では「かるた」も版本も「持綩天皇」で、二條流の宮廷歌人がらみでは「持統天皇」であったところ、元禄年間に近い時期に、宮中の歌学の様式が市中に流出して、市中でも「二條流」の表記と読みのものが盛んになり、それをけん引したのは、文字の表記は細川幽斎らの二條派宮廷歌人、画は江戸の浮世絵師、菱川師宣らしいというぼんやりした推測が成り立ちました。

それとともに、これは古い「百人一首歌かるた」の制作年代の測定の重要なヒントにもなりました。今までに判明しているところでは、江戸時代初期(1603~52)、慶長、元和、寛永年間の「百人一首歌かるた」は、基本的に元和年間のものと推察される本阿弥光悦の版本『百人一首』を手本にして歌人名と和歌本文を記載してある文字だけの「百人一首歌かるた」でしたが、遅れて寛永年間の終わりころに歌人図像付きの版本『角倉素庵筆百人一首歌かるた』が現れて、それがモデルにされて「歌人図像付き歌かるた」になりました。とはいえ、素庵は光悦の文字表記を踏襲して使ったので、「光悦本」モデルの「かるた」も「素庵本」モデルの「かるた」も、歌人名と和歌本文の記載は同じものになりました。また、慶安年間のものと推定されている『尊圓百人一首』も、歌人の図像は大幅に変えましたが、文字の表記は光悦、素庵の先例に従っています。それがすべて「持綩天皇」でありました。

私は、これらの「かるた」を「古型百人一首歌かるた」と命名して、その後の、現代まで続いているという意味での「標準型百人一首歌かるた」、別名「小倉百人一首歌かるた」と類型的に区別することとしました。「道勝法親王筆かるた」や「諸卿寄合書かるた」等は「古型百人一首歌かるた」に属し、「浄行院かるた」は「標準型百人一首歌かるた」への過渡期のものです。一方、「陽明文庫旧蔵かるた」は、所蔵者は江戸時代前期のものと鑑定していますが、むしろ50年ほど遅い18世紀、江戸時代中期の「標準型」と判断されます。これ以外にも、所蔵者によって、江戸時代初期とか、ひどい場合は室町後期、安土桃山時代などと鑑定されて自慢されているものが何点か散在していますが、いずれも元禄年間以降、大体は江戸時代中期のものと鑑定されます。ただ、この鑑定手法の開発の結果、「道勝法親王筆かるた」は江戸時代前期といっても『尊圓百人一首』刊行後の元禄年間に近い時期のもの、「浄行院かるた」はさらに後で、元禄年間のものと鑑定せざるを得なかったのが残念でした。

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