さて、ここまでは、私の「かるた」史研究の領域内でのことでした。そこに見えてきたのは、誰も言っていない「かるた」史上の正体不明の状況、暗黒の世界でした。私は、今まで「かるた」史に越境して来て、この領域での固有の調査も研究も抜きに偉そうに語る数多くの国文学史学者が気付くことさえできなかった、とんでもない世界への扉を開けてしまったのだということを理解して恐怖で震えていました。しかし、私の知的な好奇心はそれでもその暗黒を見極めることを欲していました。ですから、私は、その暗黒世界に飛び込み、恐る恐る孤独な研究を続けました。当時私は、東京で、かるたに関心のある人々と「かるたをかたる会」を結成していましたので、二カ月に一度の例会の席などでは逐一研究の現況を報告していました。何人かのメンバーは強い関心を示してくれて、議論も行いましたけど、しかし基本は個人的な孤独な研究活動でした。ところが、ここで事態はとんでもない方向に発展しました。

あるとき、私は、『百人秀歌』を調べました。藤原定家撰とされている歌集で、長い間忘れられていたものですが、昭和二十年代に、日本大学の大学院生、有吉保さんによって、宮内庁書陵部の蔵書の中から発見されました。驚くべきことに、この歌集に掲載されている和歌は、ほぼ『百人一首』と同じで、ただ、後鳥羽院と順徳院が入っていないので、承久の乱の余波がまだ静まっていなかった頃、『百人一首』の成立以前の時期のもので、『百人秀歌』が『百人一首』の先行モデルであったという革新的な学説が成り立ちました。これは、『百人一首』の研究史を一変させた大事件でした。

『百人秀歌』(宮内庁書陵部本)

この『百人秀歌』は、その後、冷泉家の時雨亭文庫にも宮内庁書陵部蔵本よりも古い巻子があることが分かりました。両方とも、紙や筆跡の状態などから、定家の原本を写したもので、その時期は鎌倉時代の後期か遅くとも南北朝対立時代であろうとされました。その後さらに他の写本も見つかり、その実在がはっきりしました。どうやらこれは、藤原定家自身によってまとめられ、息子の為家を経て冷泉家のものとなり、秘中の秘、一子相伝の極秘の歌集として蔵深くにしまわれていて、世間には知られていなかったものであったらしいです。私が発見したのは、この歌集の「持統天皇」が「持綩天皇」と表記されていたという事実です。『冷泉家所蔵本』も、『宮内庁書陵部所蔵本』もこの表記です。これは衝撃的な事実でした。この写本が、定家の原本の「持統天皇」という表記を「持綩天皇」に改訂したとは考えられないので、定家の原本も「持綩天皇」であったという推定がなされます。そうすると、鎌倉時代中期の表記は「持綩天皇」であり、いつの間にか「持統天皇」に変わったということです。

ここで、「持統天皇」に関する表記について「チャットGPT」の支援を得て簡単に触れさせていただきます。「持統天皇」については、『古事記』、『日本書紀』、『続日本記』のいずれでも、長々しい生前の本名か、あるいは没後の「謚号(おくり名)」が使われていますが、「国風謚号」は「高天原廣野姫尊」で一致しているのに、「漢風謚号」は不安定で、『古事記』では「持常天皇」、『日本書紀』と『続日本記』では「持綱天皇」と記述した例もあるし、「持継天皇」とした例もあると説明されました。これが安定したのは、平安時代の「淡海三船(おうみのみふね)」による歴代天皇の「漢風謚号」の確定後です。一方、「持綩天皇」という表記の初出は、天永2年(1111年)の、大江匡房(おおえのまさふさ)著、『江家次第』という有職故実の書だとされています。ただし、現在利用可能なのは室町時代の写本でして、この時代には室町幕府の関係者は「持綩天皇」という表記でしたから、平安時代の大江の原本がそうだったのか、それとも写本の段階で室町時代の常識でそう表記換えしたのかは分かりません。そして、明治時代以降の近代では、歴史学研究者、国文学史研究者ともに、この表記の揺れを深く検証する者はいなかったようです。謚号研究の基本書とされる森鴎外の『帝謚考』にも、漢籍に「継体持統」という熟語があることは紹介されていますが、「持綩天皇」については格別の記述が見当たりません。

宗祇『百人一首抄』應永十三年版
(笠間書院、2016年)

これは、国文学史研究の課題であって、「かるた」史の研究課題ではありません。ですので、私はこのことを話したり書いたりは遠慮していました。ところが、続いて私は『百人一首』の巻本で成立の事情がしっかりしている最古の文献史料、室町時代前期の宗祇『百人一首抄』の室町中期の写本を調べていると、そこの表記も「持綩天皇」でした。宗祇は二條流系統の歌人、歌学者です。そして、室町時代の二條流は、この宗祇の『百人一首抄』の影響力が強くて、『百人一首』なのに「持綩天皇」という表記でした。一方、冷泉流では、時雨亭文庫に秘蔵されていた『百人秀歌』が昭和後期に公開されました。これも「持綩天皇」ですから、『百人秀歌』から初期の『百人一首』が生まれた頃はこの表記であったことが推測されます。またその後も、室町幕府の要人や幕府寄りの文化人の間ではこの表記が用いられていた様子も見えてきました。そうなると室町時代は二條流も冷泉流も「持綩天皇」という表記であったということになり、逆に、「持統天皇」という表記はいつ頃始まったのかが気になります。私はこうしてこの暗黒の世界の探検にさらに引きずり込まれて行きました。

こうしてみると、『百人一首』は、最初に南北朝期に二條流の歌人「頓阿」によってはじめて言及され、室町前期に二條流の宗祇によってはじめて解釈書が執筆され、その際は前代の藤原定家撰の『百人秀歌』を引き継いで「持綩天皇」と表記していたものを、その後二條流の内部で「持統天皇」に改めたということになります。一方、「持綩天皇」とした『百人秀歌』を秘守していた冷泉流は依然として「持綩天皇」であり続けました。そして、二條流の内部では、三條西實隆や細川幽斎、中院通勝のような公家の宮廷歌人が率先して「持統天皇」と表記したようです。考えてみれば冷泉流は南北朝の争いでは北朝方で、足利幕府やその周辺の人たちに迎えられており、他方、二條流は南北朝の争乱期には後醍醐天皇べったりの南朝方で、ですので南朝が敗れると二條流も没落し、ついには本家筋が途絶えてしまいました。そこで、二條流の歌人たちが、幕府に匹敵する権威の皇室を頼ったのは自然なことです。そして歴史は皮肉で、室町時代後期、戦国時代から安土桃山時代には足利幕府が衰退し、皇室の権威が回復してきたので、二條流も勢いを盛り返したということでしょう。こういう大きな流れと、「持綩天皇」と「持統天皇」の問題はきれいに重なって理解できます。

ところがここで困ったことに、妙な違和感が生じています。その最大の障壁は、藤原定家の息子で後継者の藤原為家が書いたと言われる、いわゆる『為家自筆本』の存在です。この模写本の原本は失われて所在不明なのですが、江戸時代後期になってそれを写し取った写本が発見されました。為家筆の原本はとっくに消滅していて、残されたのは写本の写本のまた写本というような、原本との距離が遠いものです。ところが、この『為家自筆本』は、歌人名や和歌本文が、江戸時代元禄年間以降の「標準型」です。当然ですが「持統天皇」です。こうなると、この歌集の伝来のいわれも疑わしくなります。私は、これは江戸時代中期以降に創作された偽書だと判断しています。同じようなことは江戸時代中期以降に発見された他の古写本でも何回か起きていて、続々と発見された、南北朝時代とか室町時代前期の『百人一首』歌集だと言われたものは、皆「持統天皇」という表記から見ると眉唾物であることが分かります。

田渕句美子他編『百人一首の現在』
(青簡舎、2022年)

こうして私は、国文学史の世界では、天皇の謚号(しごう)が定められてから数百年後に変わってしまったという奇怪な史実にたどり着きました。これは恐怖の結論です。なぜならば、これまでに『百人秀歌』を研究した国文学史の泰斗は、ド素人の私が見たって糸へんに「宛」であることは明白なのに、誰一人、それを「じえんてんのう」とは読まずに「じとうてんのう」と読み、論文で扱う時は糸へんに「充」、「持統天皇」と表記しているからです。それは最近刊、私の尊敬する早稲田大学の田渕句美子教授などの編集なさった、百人一首業界の権威の方々の最新の業績を網羅した、ご自身で明日の定説になれと呪文を唱えていらっしゃる『百人一首の現在』の諸論文中でも変わりありません。『百人秀歌』の「持統天皇」とか、『百人一首抄』の「持統天皇」といった表記が頻出するところからすると、現在の国文学史の研究世界でも、「持綩天皇」と「持統天皇」の異同は無視されているようです。優秀な国文学史研究者がこれに気付かないはずはないので、きっと国文学史という学界には、外部の素人などの計り知れない暗黒があって、そのタブーには気付いていても触れていけないのが学界常識なのだということでしょう。

これはもうイソップ童話の世界です。これまで私は、童話の床屋のように、誰もいないところに穴を掘って「持綩天皇」と呟き続けてきましたが、寄る年波でしょうか、自制心が薄くなって、とうとう、近著の『百人一首』で告白してしまいました。お読みいただいた方からは、「持綩天皇と持統天皇の件は面白い」と喧嘩の野次馬のような感想をいただいていますけど、でもこれは、「かるた」史の研究者としては他の研究者の研究領域への越境攻撃になります。私は、「かるた」史に関する不当な干渉、攻撃に対しては自衛権を発動してきましたが、境界を越えて越境攻撃をしたことはありません。「他人が飯食っている茶碗を叩き落すようなことはするな」というのは、故田中角栄首相の教えです。ですので田中さんは、「東京にビルを建てると田中派が潤い、建ち上がると福田派が潤う」と言われたように、(ちなみに当時の東京のビル管理、清掃関係は福田派の縄張りで、業界組織の会長は、福田派のプリンス、「上から読んでもおちみちお、下から読んでもおちみちお、中に実のあるおちみちお」の越智通雄さんでしたけど)、ビル管理業界という福田派の茶碗を奪い取るのではなく、ビル建設業界という利権の茶碗を新たに作り出して砂利とコンクリートでおいしい食事をしていました。私は、他領域の研究者が、『百人一首』で研究者、大学教授の地位を得ておいしい食事をしていることを問題にしたのではありません。それは自衛の範囲外、隣町での商売の問題なのですから。私は、ただひたすらに、「かるた」史研究という私も参加している研究領域に隣町から時折投げ込まれる、過去の通説から来る「誤情報」や「虚説」というものを排除したかったし、その草むしりの努力もしてきました。研究書の極めて少ない領域ですので、事情がよくは分かっていない一般の人々や学生、院生たちが、そして将来世代の若い研究者たちが誤解して道を誤らないようにという思いは今も確かです。

イソップ童話の世界では、ロバの耳の王様は反省なさって円満解決でしたけど、さて、日本の国文学史の王様たちはいかがでしょうか。変な「おち」になってしまいましたが、ここまでお付き合いくださった寛大なお心に感謝しつつ、話を終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。

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