カルタ遊技図郵便切手
カルタ遊技図郵便切手
(松浦屏風、大和文華館蔵、江戸時代中期)

成瀬論文までの議論の応酬は、主として画題の衣裳を取り上げて検討したものである[1]が、別の視点から成瀬の問題提起に応じた指摘が登場した。漆工史研究の近藤利江子は画中資料の硯箱の描写を分析し[2]、「実際に描いた時期と、絵の中に表現しようとした時期が異なっていると解釈するのが、もっとも納得できる」のであり、「その注文主は、五十年以上過ぎて、すでに昔となったその時代に、強い憧れを持ち、多くの知識を集め、慶長という時期をこの屏風に体現したかったのではなかろうかと結論付けたい」ので、制作時期は「寛文期以降」と結論付けた。穏当な結論であると思う。また、文化財史研究の壽川美由紀は、カルタ遊技場面のカルタ札を分析した[3]。私も、『ものと人間の文化史173 かるた』で参加した[4]。壽川は、主としてカルタ札そのものの描写に注目して、それが日本製の天正カルタであると指摘した。また、衣裳が慶長年間(1596~1615)以前のものとする山邊知行の理解や、画中のロザリオに当初は十字架があったことから、慶長十八年(1613)のキリスト教禁令発布を制作年代の下限とした。壽川の指摘は、この屏風に描かれたカルタ札についての初めての本格的な研究であり、私とは見解が異なる点もあるが傾聴に値する。なおその後、大和文華館自体がこの屏風絵の工芸品を紹介した短文がある[5]。この点は、カルタ史研究の重要な論点であるので詳しく検討しておきたい。

まず、ここに描かれているカルタ札であるが、右側の遊女の左手に手札が三枚、右手に今まさに場に出そうとしている手札が一枚、床に置かれている場札が一枚、左側の禿(かむろ)の左手に手札が四枚、右膝脇に取り札が四枚、合計で十三枚がある。このうち、遊女の手にある四枚と禿(かむろ)の膝脇にある四枚は裏面を見せている。それには木版の裏紙が貼られていて、中央に縦長の枠があり、その中に小判型の枠に囲まれた人物の胸像がある。縦長の枠の外側には右肩上がりの斜線があり、裏紙の端は縁返し(へりかえし)の手法で表面に折り曲げられて貼り込まれている。表面の縁の斜線部分は正しい向きに描かれている。このように裏紙に模様を入れて印刷して芯紙の裏面に貼り付け、端を表面に折り返すのは当時のヨーロッパのカルタ制作ではごく普通の方法であり、裏面の紙に不純物が混じってシミなどが生じて表面がどういう札であるかが他の遊技者に露見しないように細かく濃密な模様を入れて分からないようにする工夫である。日本でもこの方法を継承しているが、手漉きの製紙技術が当時のヨーロッパよりも優秀でありシミや傷のない用紙を用いることができたので、手描きの天正カルタやうんすんカルタでは黒一色、あるいは銀一色の無地の裏面にできた。他方で木版の天正カルタは南蛮カルタの製法を守ったので縁返し(ヘリかえし)の手法も引き継いだ。この「松浦屏風」のカルタ札に裏面の模様があるということは、これが木版のカルタであることを示すもう一つの証拠となる。そして、裏面の模様を見ると、そこには日本人の制作者の名前の表示がない。木版の天正カルタでは「三池住貞次」のような名前が現れる例が多いので、このカルタ札は南蛮カルタではないかという推測を生む。

次に、カルタの表面を見せている五枚の札であるが、まず、床に置かれている紋標オウル(金貨)の四の札を検討したい。この札は縦横の比率が二対一に近いが、南蛮カルタや初期の天正カルタはおおむねこういう比率であり、時代が下がると一・六対一程度にまで変化していることを考えると、ごく初期の札であることが理解できる。カルタの絵柄では、紋標のオウル(金貨)紋が真円に描かれていること、紋標の彩色が、左右の塗り分けであること(後述2-5うんすんカルタ二(二)参照)、中央に花柄の模様があることが特徴的である。オウル(金貨)紋を真円に描くのは南蛮カルタの形であり、日本では、手描きの天正カルタはこれを継承したが、木版の天正カルタでは縁の部分を切り落とした形になっているので、真円形の紋標を持つこのカルタ札が手描きの天正カルタであるか、南蛮カルタであると考える強力な根拠になる。紋標の金貨には黄色の彩色を施し、その上に左右を赤色と緑色に塗り分けているが、これは木版の南蛮カルタと天正カルタの彩色の流儀であり、手描きの天正カルタやうんすんカルタは同心円に彩色するので、ここからは木版の南蛮カルタか天正カルタであるということになる。札の中央の花柄の模様は、木版の天正カルタの模様によく似ている。手描きの天正カルタにはこういう模様は入っていないから除外できるが、南蛮カルタにこういう模様があったのかどうかは分からない。ただ、スペインやポルトガルのカルタでは王家のワッペンが描かれていることがあり、花柄の模様が普遍的なものではなかったことは分っている。

以上からすると、このかるた札は、木版の南蛮カルタを描いたものと理解しても、木版の天正カルタと理解しても、手描きの天正カルタと理解しても矛盾が生じる。この混乱は、松浦屏風の絵師が何か誤解をして他のカルタの特徴を取り入れて描いてしまったと考えないと理解できない。

松浦屏風:禿の手中のカルタ札
松浦屏風:禿の手中のカルタ札

次に禿(かむろ)の手中の四枚の手札に移ろう。それは、上から、①紋標ハウ(棍棒)のドラゴン・カード、②紋標オウル(金貨)の五の札、③紋標コップ(聖杯)の四の札、④紋標ハウ(棍棒)の三の札である。

①のドラゴン・カード上の龍は、手描きの天正カルタに見られる火焔龍ではなく木版の南蛮カルタ及び天正カルタに共通の蝙蝠龍である(後述2-5うんすんカルタとすんくんカルタ、二(一)参照)。このカードでは龍の羽根が小さい。一般に、蝙蝠龍の羽根は日本上陸後に徐々に小さくなっているので、この絵の印象では、伝来後相当の時間が経過した時期の龍の絵ということになる。この龍を見た直感としては、これは木版の南蛮カルタではなく、木版の天正カルタである。

②の紋標オウル(金貨)は真円である。木版の天正カルタではありえない。①の推論と矛盾する。ただし、下部の紋標オウルの図像には、横に直線が引いてある。一般に紋標オウルでは、縦に弓型の弧の線が描かれるので、これは絵師の誤解と思われるが確かではない。

③の紋標コップ(聖杯)の四の札は、南蛮カルタの「コップ」の紋標を上下逆転させて「巾着」状に描かれている。これが初期の木版の天正カルタを表現しているのか、それとも、南蛮カルタであるのに後世の「松浦屏風」の絵師が、その時代の常識を慶長年間(1596~1615)に遡及させて上下を逆転させる誤解をしたのか、どちらかは分らない。あるいは、禿(かむろ)が南蛮カルタを逆さに持っている状態を描きたかったのかもしれない。ただし、元来は聖杯の脚部であった部分の図柄は大きく乱れており、もはや脚部ではなく、明らかに巾着の紐で締めた上部の布を表現していると理解される。こうした元の脚部の座像の乱れは⑦神戸市立博物館蔵の「カルタ版木重箱」にも顕著に表れている。つまりこの部分は、これが日本製の「コップ」であることを示し、南蛮カルタではないことの強力な論拠になる。

④の紋標ハウ(棍棒)の三の札は、「ハウの二」の札の様にも見えるが、上端部を上部に見れば「ハウの三」の札である。棍棒の下端が切れずにきちんと描かれていることからするとその部分が切れがちな天正カルタよりも伝来の南蛮カルタ札ではなかろうかと考えられる。ところが、紋標棍棒の幹部分の横面は網目模様である。木版の南蛮カルタや天正カルタでは、この部分は目の細かい横線模様であり、彫りが容易な網目模様に手抜きした例は知らない。

そうすると、この絵は、伝来当時からすると約一世紀後に描かれたとはいえ、江戸時代初期の木版の天正カルタの画像で、今日まで残り伝えられた唯一の例という可能性が高い。ただし、ここに詳細に見たように、この判断と矛盾する部分もある。特に、オウル紋標画が真円であることから、南蛮カルタを描いた可能性が消せない。私は、この真円の描写は絵師の誤解で、真円であるべしという観念のままに描いたのではないかと考えている。そうすると、これはやはり木版の天正カルタと考えるのが一番妥当であるが、これを木版の天正カルタと断定した私の以前の説明は屏風の図像以外の外部の情報に影響され過ぎており、それを修正して「木版の天正カルタである可能性が高いが、絵師の誤解か、これと矛盾する表現も少なからず存在する」とさせていただきたい。そして以上の検討の結果としては、カルタ札の描写からは、「松浦屏風」が慶長年間(1596~1615)の作品であるとする大和文華館サイドの理解は成立しうるように見える。


[1] 松浦屏風の表現について、衣裳の表現に専念して論じたものに、大塚香里「松浦屏風の衣裳表現について」『bandaly』第二号、明治学院大学大学院文学研究科藝術學専攻、平成十五年、一七頁。

[2] 近藤利江子「《松浦屏風》の画中資料である硯箱からわかること」『美術フォーラム21』第十九号、醍醐書房、平成二十一年、七八頁。

[3] 壽川美由紀「カルタから見た松浦屏風の制作年代」『文化財學報』第五集、奈良大学文学部文化財学科、昭和六十二年、六九頁。

[4] 江橋崇『ものと人間の文化史173 かるた』、法政大学出版局、平成二十七年、四八頁。

[5] 中部義隆「〔女性像の系譜展によせて〕『婦女遊楽図屏風』(松浦屏風)の工芸品の表現について」『季刊美のたより』第一七四号、平成二十三年。

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