江戸時代初期(1603~52)のカルタ遊技の研究において必ず参照されるのが、奈良県奈良市の大和文華館蔵の国宝、六曲一双の「婦女遊楽図屏風」(以下、「松浦屏風」)である。当時大流行した「邸内遊楽図」は遊里での男女の交際の姿を描くものであるが、「松浦屏風」は慶長年間(1596~1615)の遊女の姿を群像として描いたものであり、「遊女図」であって男は一切登場しないから「遊楽図」という概念に含まれないようであるが、遊女を描いたという点で近接性があるのでこのグループに含めることになる。

この「松浦屏風」は、所蔵者の大和文華館の鑑定に基づき、慶長年間(1596~1615)に描かれた作品とされており、そこには遊女と禿(かむろ)が二人でカルタ遊びに興じる姿がある。この年代測定が正しいとすると、これは最古期のカルタ遊技の場面を描いた絵図ということになり、その史料としての価値は計り知れないほどに重大なものとなる。山口吉郎兵衛『うんすんかるた』[1]もこれに注目し、明治三十九年(1906)刊の『浮世絵派画集』掲載の松浦家所蔵当時の写真を基に検討を深めており、これを初期の天正カルタあるいは伝来のポルトガルのカルタと紹介している。『うんすんかるた』刊行時にはすでに大和文華館の所蔵に帰していたので、同書では『浮世絵派画集』掲載の写真ではなく、同館の許可を得た鮮明な写真が掲載されている。この絵画について少しく検討してみたい。

「松浦屏風」は、元来は長崎県平戸の領主松浦家が所蔵していたものである。同家に伝わる江戸後期の領主、松浦清(静山)の所蔵品目録『平戸藩楽歳堂目録』には、「遊女之図屏風、又兵衛金玉画府五巻六巻ニ見ユ、壹双。浮世絵又兵衛画、又兵衛末祥之、元ハ京ノ猪飼太右衛門蔵天明七年丁末贈予。」[2]とあるので、静山が天明七年(1787)に京の骨董商と思われる猪飼某から入手したことが明らかであるが、成瀬不二雄は単なる完成品の購入というよりも、故実に詳しい静山があれこれと注文を付けて描かせて購入したものと想定している。

この屏風は、六曲一双のものであるが、二枚の屏風の何れが右に置かれ、左に置かれるべきなのかは、実ははっきりしない。所有者の大和文華館自身が、三代の館長は初代と二代の館長と逆の並べ方を指示している。私は、元来は、三代の館長と同じ並べ方、カルタ遊技場面を左端に置くことで構図全体のバランスが取られており、遊女たちは左右の端が座像で中央が立像、全体として見れば中央が高い丘のような構図だと理解していたが、最近の小田茂一は逆に「画面に登場する十八人のうち八人が描かれている一面を右隻、十人が描かれている一面を左隻と位置づけて検証を進めていく」として初代と二代と同じ並べ方を指示している。ここでは、とりあえず議論の出発点としては小田の理解に従って、カルタ遊技場面のあるものを右に置き、双六盤のあるものを左に置いて考察を進めていきたい。

この作品は、昭和前期(1926~45)に松浦家の手を離れ、数人の所蔵を経て、昭和後期(1945~89)の早い時期に売りに出された。当時は第二次大戦の敗戦直後であり、美術品の市場も激動していたが、この時期に「彦根屏風」が売りに出され、大和文華館も購入を試みたが失敗した。たまたま同時期に「松浦屏風」も売りに出されたので「彦根屏風」の購入計画や財源を転じてこれを購入したといういきさつがある。購入を主導したのは同館初代館長の矢代幸雄(やしろゆきお)であり、これを近世初期、慶長年間(1596~1615)の風俗画の代表的な名品であると鑑定し、その格別の推薦もあったのか、昭和二十九年(1954)に国宝に指定された。

ただ、「松浦屏風」については、「彦根屏風」が文句なく名品と認められたのとは別に、芳しくない評判もあった。これに対抗するように大和文華館は、東京国立博物館の染織研究家であった山邊知行に依頼して検討を深め、昭和三十年(1955)に大和文華館の機関誌『大和文華』誌上の論文「国宝『松浦屏風』の染織覚書」[3]で、服装と染織品について周到な研究成果を公表させた。さらに、矢代自身も、昭和三十四年(1959)に、論文「人体美の芸術と松浦屏風」[4]で、山邊論文に依拠して、これが慶長年間(1596~1615)の同時代的な遊里風俗を描いた絵図であることを主張した。なお、この矢代論文には、それに同調する画家の山口蓬春の「松浦屏風」[5]という小論も付属している。

こうした状況に大きな波紋を生じさせたのが、成瀬不二雄である。成瀬は、昭和三十六年(1961)から大和文華館の研究員を務め、「松浦屏風」に親しく接していた経験を有したが、平成九年(1997)に同館次長職を最後に退職し、平成十一年(1999)に九州産業大学教授に転じた後、平成十八年(2006)に論文「国宝松浦屏風の制作年代とその制作の指導者について」[6]を発表した。この論文で成瀬は、画面の詳細な検討を経て、衣裳などは慶長年間(1596~1615)を思わせるものが多いが、細部にはもっと後の時代を思わせる不可解な誤描があり、それが、後世になってから慶長年間(1596~1615)の風俗をしのんでその時代の物品を学んで描いた絵画であることを示しているとする分析を示したうえで、元館長の矢代は山邊の鑑定を自分に都合のいいように曲げて理解しているのであって、山辺は慶長年間(1596~1615)の衣裳を描いていることは認めても絵画がこの時期の作品だとは言っていないのだから矢代の慶長年間(1596~1615)制作説の論拠にはならないことを説明し、さらに進んで、江戸時代中期(1704~89)後半の人である松浦静山を制作の指導者として取り上げて屏風の制作はこの時期であるとした。成瀬は、大和文華館に勤務していた時期の説明[7]を一変させたのであるが、こうして国宝絵画の真贋という由々しい問題が生じることとなった。


[1] 山口吉郎兵衛『うんすんかるた』、リーチ(私家版)、昭和三十六年、一五頁。

[2] 成瀬不二雄「国宝松浦屏風の制作年代とその制作の指導者について」『美術史論集』第六号、神戸大学美術史研究会、平成十八年、一八頁。

[3] 山邊知行「国宝『松浦屏風』の染織覚書」『大和文華』第十六号、大和文華館、昭和三十年、一頁。

[4] 矢代幸雄「人体美の芸術と松浦屏風」『日本の古典・絵画篇』第六回配本、美術出版社、昭和三十四年、一頁。

[5] 山口蓬春「松浦屏風」『日本の古典・絵画篇』第六回配本、美術出版社、昭和三十四年、一九頁。

[6] 成瀬不二雄「国宝松浦屏風の制作年代とその制作の指導者について」『美術史論集』第六号、神戸大学美術史研究会、平成十八年、一頁。

[7] 成瀬不二雄「大和文華館この一点『松浦屏風』(婦女遊楽図屏風)」『松浦屏風と大和文華館』、朝日新聞社、昭和五十八年、一三頁。

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