紋標コップのソウタ
紋標コップのソウタ
(右:天正カルタ・三池カルタ歴史資料館、
左:松浦屏風・大和文華館)

なお、その後、平成三十年(2018)になって、小田茂一が、まったく新しい着想でこの屏風絵を解析した[1]。小田は、カルタに興じる右側の遊女がまとう打掛が「三つ巴紋」であることに注目した。「三つ巴紋」自体は古くから存在していたが、ここでは、元禄年間(1688~1704)に登場した一組七十五枚の「うんすんカルタ」で第五の紋標として採用された巴(クル)に由来するものであり、この屏風絵の絵師は、新登場の「うんすんカルタ」を新感覚のデザインの素材として応用している。また、この遊女の小袖には円環模様と菱形模様があり、これも天正カルタの紋標の模様に由来する。さらに、この屏風の別の箇所に、ガラスの鉢を持つ女従者の図像があり、そのポーズ、ガラス鉢、髪型などが天正カルタの紋標コップ(聖杯)のソウタ(女従者)の姿と酷似しており、両者がともに「十二菊花紋」の衣裳をまとっているところからも深い関連性が分かる。これが小田のカルタ模様に関する解析である。そして、この他に、小田は、遊女の静態的な仕草の表現、衣裳での「総鹿の子絞り」、帯の「後ろ結び」の多用など、慶長文化を描こうとしているのに後世の元禄文化で描いてしまった箇所を鋭く指摘している。

小田の理解に依れば、松浦屏風の制作時期は、「うんすんカルタ」の成立した元禄年間(1688~1704)よりも後の時期、十八世紀初め以降ということになる。小田はさらに、同時代の「誰が袖美人図屏風」やその他の絵画作品との画面構成、絵筆の運びなどの類似性から、ついには二点の屏風絵共通の絵師として尾形光琳を想定するところまで進んだ[2]。これは極めて斬新な指摘であり、今後の光琳研究及び「松浦屏風」研究に益するところはきわめて大きい。

小田の考察は、数十年に及ぶ研究と、平成年間後期に発表した数点の論文での考究を経たうえで単著に集約されており、考察は周到であり、旧来の謎の部分の多くを解明しているが、そこからまた新しい謎が生じてくる。例えば、小田は著作の中で「松浦屏風」を見る者の視線の流れに言及している[3]が、それによれば、十六人の女性は一つの空間を構成しているように描かれているのであるが、私には、小田の指摘が作り出す空間からはカルタを遊技する二人は疎外され、別室にいるように孤立しているように見える。二人のうちの右手の遊女で、着物の裾がすぐ横の紅色の着物の女性の裾と重なって描かれていることだけがわずかに空間の連続性を表しているので、本来、一つの空間にあるはずなのに、遊女たちの集まりに背を向けて遊技する図像を見た印象は、この遊女の圧倒的な疎外感、孤立感である。六曲一双の屏風絵の織り成す世界の中央に、なぜこのように沈み込む異常な部分が配されたのか。あるいは、一対の屏風の左右の配置を逆に考えれば、画面の左端に、まるで文章のピリオドのように沈んだ部分がなぜ来るのか。小田は著書のこの部分ではカルタ遊技の二人については何も語らない。

私は以前から、この二人が、その他の遊女たちが醸し出す共通の空間から隔絶した別空間に描かれていることが気になっている。こうした、二人をまるで別の絵のように孤立させる描き方は「彦根屏風」でのカルタ遊技の扱いを思い起こさせる。「彦根屏風」では、各種の遊興場面が連続する画面の描写の中に双六盤の遊技はあるがカルタ遊技はない。そして、この欠落を補うように、別絵で、旧藤井永観堂文庫蔵、現立命館大学蔵の「カルタ遊技図」がある。こうした「彦根屏風」での別絵の扱いと、「松浦屏風」での画中画のような孤立した扱いとには何か共通する考えがあるのだろうか。カルタ遊びが別異に扱われるべき背景があったのだろうか。私には解答の用意がない。

遊びは賭博系の遊技であり、必ず勝者と敗者が出る。「松浦屏風」では、この二人のほかには、遊女の間で勝者や敗者がでる生活の要素は描かれていない。その可能性のある雙六盤の遊技では、中央上部左(あるいは右端上部)に勝負後の盤が描かれていても遊技者はいない。このことは何を意味しているのであろうか。勝ち負けが生じるような遊技の空間は、きらびやかな遊女の世界から分けられ、別置されるということなのだろうか。絵師はそれを嫌ったのであろうか。絵画に関する素人の私は、この謎の前で全く無力であり、いつか教えを乞える日が来ることを待つのみである。

もう一つ、小田は、「松浦屏風」の遊女の表情は、特定のモデルがあってのものであろうという推理を深めている。甚だ興味を惹かれる観点である。カルタ遊技の遊女は、単にその遊技をする遊女一般ではなく、誰か、特にカルタ遊技を好んだ遊女をモデルにしたのであろうか。この時期のカルタ好きと言えば、例えば松葉屋の吉野太夫がいる。もし、モデルがいたとすると、遊女像の孤立、孤独は、実際にカルタ遊技の上手な遊女の孤立、賭博遊技の勝者の孤独を表現しているのかもしれない。絵師は、賭博系の遊技では不可避の優秀な遊技者、名人の孤独をも描きたかったのだろうか。それは絵師と同時代の元禄末期頃(1700~04)の遊女なのか、それとも伝説の超有名遊女、吉野太夫なのか。「松浦屏風」制作の同時代人たちと、絵画に描かれた時期と空間をリアルに共有できない現代の私には、当時の人なら図像を見ればひと目で容易に了解できたであろうことが理解できない。歯がゆく情けないことであるがここにも謎が生じる。


[1] 小田茂一「『松浦屏風』の衣裳図柄と身ぶりに反映するカルタ札―『うんすんカルタ』成立時期から探る屏風制作時期」『愛知淑徳大学大学院―文化創造研究科紀要―』第五号、同大学院文化創造研究科、平成三十年、二三頁。

[2] 小田茂一『風俗絵師・光琳 国宝『松浦屏風』の作者像を探る』、青弓社、平成三十年。

[3] 小田茂一、同前『風俗絵師・光琳 国宝『松浦屏風』の作者像を探る』、一二八頁。

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