こうして鎖国の時期の外国人による日本のカルタの理解を見てくると、当時の幕府が課したいくつかの制約が正しい理解を妨げていたことが分かる。第一に、オランダ商館の関係者には、日本語の学習が禁じられていた。これはオランダ人と日本人の間に、当局のコントロールできない交際が生じることを嫌ったための制約であるが、外国人には、日本のカルタについて、日本人と会話して詳細に聞き出すことができなかった。観察は表面的なものにとどまり、カードの形状などは観察して記録できても、遊技法についてはほとんど理解できていなかった。第二に、外国人と日本人の家族ぐるみの交際が成り立たなかったので、日本人家庭におけるカルタ遊技の実際を見る機会がなかった。百人一首やいろはかるたのような日本式のかるたについては、その存在さえも知覚できていない。

こうした制約条件の中での観察であったので、外国人の日本のカルタに関する知識の情報源は主として遊郭での見聞であったといえよう。一八世紀には世界の最先端にあった日本のかるた文化はうまく伝わっていなかったと判断される。中には、ブロンホフのように、出島の滞在期間が長期に及び、厳しい制約をかいくぐって世俗な事象への理解を深めることができた者もいたがそれは例外で、こうした限界を超えるには、幕末期(1854~67)の開国以降の、外国人と日本人の交流の圧倒的な増加を待たねばならなかった。

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