百人一首という歌集には、よく分からないことが多い。記録では、藤原定家が姻戚関係の宇都宮頼綱(よりつな)に提供した個人的な選歌集が元ではないかと考えられているが、色紙状であった原本やその写しは散逸しており、歌人名も、百首の和歌の歌順も、またその表記も定まった史料がない、と言われていた。そこに、昭和後期(1945~89)に宮内庁書陵部の『百人秀歌』が発見され、また、定家の子孫である冷泉家などに伝わった『百人一首』歌集(いわゆる『冷泉家本百人一首』。但し冷泉家の呼び方では『嵯峨中院色紙和歌』)が、江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)の宮廷に伝わった二條家の系統の『百人一首』歌集(いわゆる『二條家本百人一首』)とは、歌人名、歌順、和歌本文の表記が異なるものであることが判明し、異本系の歌集への関心が高まったことにより、平成年間(1989~2019)に入ると百人一首という歌集の始原の姿がさらに謎めいて見え、隠された定家の編集意図への興味も一層高まった。そういう昭和後期(1945~89)から平成年間(1989~2019)にかけての時代背景の中で、織田正吉『絢爛たる暗号―百人一首の謎を解く』が現れ、百人一首発祥研究史は活気づいた。私も必要を感じて学習してきたが、書架に並ぶ織田以降に公刊された謎解き本には次の様な著作がある。

織田正吉『絢爛たる暗号―百人一首の謎を解く』(集英社、昭和五十三年)。

    同『謎の歌集/百人一首』(筑摩書房、平成元年)。同『百人一首の謎』(講談社、平成元年)。

林直道『百人一首の秘密―驚異の歌織物』(青木書店、昭和五十六年)。

    同『百人一首の世界』(青木書店、昭和六十一年)。

小林耕『 百人一首 秘密の歌集―藤原定家が塗り込めた「たくらみ」とは』(イースト・プレス、平成二年)。

吉海直人「『百人一首』配列試論」『國學院雑誌』第八十五巻第五号(國學院大學、昭和五十九年)二〇頁。

    同「百人秀歌型配列の異本百人一首について」『和歌文學研究』第六十一号(和歌文學会、
    平成二年)五六頁。『百人一首注釈書叢刊』別巻1(和泉書院、平成十五年)二三七頁。

    同『百人一首への招待』(ちくま書房、平成十年)。

    同『百人一首かるたの世界』(新典社、平成二十年)。

江橋崇「百人一首かるた成立期の謎」『月刊文化財』第三百二十八号(第一法規出版、平成三年)一〇頁。

『國文學』臨時増刊号「小倉百人一首 詞人の饗宴、雅のレトリック」(學燈社、平成四年)

   (百人一首起源論に関係する論文のみ)

    有吉保「藤原定家と百人一首」

    樋口芳麻呂「歌仙ということ」

    川村晃生「和歌史としての百人一首」

    増田繁夫「百人一首批判」

    塚本邦雄「身をば思はず」

    竹西寛子「文化の本歌取り」

    村尾誠一「百人一首は歌織物か」

    錦仁「百人一首に暗号は隠されているか」

    今井明「後鳥羽院は百人一首を知っていたか」

西川芳治『百首有情 百人一首の暗号を解く』(未来社、平成五年)。

松村雄二『百人一首 定家とカルタの文学史』(平凡社、平成七年)。

いしだよしこ『小倉山荘色紙和歌 百人一首の謎解き』(恒文社、平成八年)。

太田明『百人一首の魔方陣-藤原定家が仕組んだ「古今伝授」の謎をとく 』(徳間書店、平成九年)。

高田崇史『百人一首の呪』(講談社、平成十年)。

瀬戸口善則「文字鎖による『伊勢かきつばた絵図』―定家撰『小倉百人一首』の10×10『斜めつづら折配列』―」『岐阜大学工学部研究報告』第五十二号(岐阜大学工学部、平成十四年)六九頁。

今川仁視「百人秀歌・『百人一首』の謎解明のための予備的意考察(1)」『東海学園言語・文学・文化』第六十二号(東海学園大学日本文化学会、平成十五年)一一頁。

有吉保・神作光一監修『淡交ムック 百人一首入門』(淡交社、平成十六年)。

白幡洋三郎編『百人一首万華鏡』(思文閣出版、平成十七年)。

    (百人一首起源論に関係する論文のみ)

    白幡洋三郎「はじめに」

    吉海直人「百人一首の世界―その文化的広がり」

    錦仁「藤原清輔『ながらへば』の歌の解釈をめぐって―衰退史観・尚古思想」

    江橋崇「歌留多になった小倉百人一首」

家郷隆文『見つけた!「百人一首」の主題歌』(文芸社、平成十八年)。

『國文學』臨時増刊号「百人一首のなぞ」(學燈社、平成十九年)。

    (百人一首起源論に関係する論文のみ)

    錦仁「『百人一首』へ、そして『百人一首』を越えて」

    吉海直人「『百人一首』かるたの謎」

    江橋崇「『源氏カルチャ』と「『百人一首カルチャ』」

    島津忠夫「『百人秀歌』が先か、『百人一首』が先か」

    渡部泰明「表現論―掛詞・縁語をどう考えるか」

    辻勝美「『百』という数字は何を語るのか」

    赤羽淑「藤原定家は本歌取で時間を超えたか」

    渡邉裕美子「後鳥羽院―名所障子に囲まれた帝王」

    鈴木元「伝授―『百人一首』受容史の一局面」

榎村寛之「王権史として見た『百人一首』―鎌倉前期貴族の『歴史』認識」『古代文化』第六十巻一号(古代学協会、平成二十年)四一頁。

深沢秋男『如儡子百人一首注釈の研究』(和泉書院、平成二十四年)。

関裕二『百人一首に隠された藤原定家の暗号』(廣済堂出版、平成二十五年)。

湯原公浩『別冊太陽日本のこころ213 百人一首への招待』(平凡社、平成二十五年)。

大津市歴史博物館『企画展百人一首かるたの世界』(大津市歴史博物館、平成二十五年)。

山縣知道『「百人一首」七百八十年の謎を解く』(文芸社、平成二十六年)。

合六廣子『歴史スペクトル百人一首を読み解く』(鉱脈社、平成二十六年)。

中村るり子『ベールを脱いだ百人一首』(文芸社、平成二十六年)。

田中紀峰『虚構の歌人 藤原定家』(夏目書房新社、平成二十七年)。

竹井未來「『小倉百人一首』歌人の配列についての研究―説話・伝承から見た連纂性―」『長野国文』二十三号(長野県立短期大学日本語日本文学会、平成二十七年)一頁。

徳原茂実『百人一首の研究』(和泉書院、平成二十七年)。

草野隆『百人一首の謎を解く』(新潮社、平成二十八年)。

寺島恒世『百人一首に絵はあったか 定家が目指した秀歌撰』(平凡社、平成三十年)。

同志社大学文化情報学部福田智子教室「同支社大学文化情報学部蔵『百人一首かるた』(歌意図入り)四種―影印・翻字と考察(一)」『文化情報学』第十四巻第一号(同志社大学文化情報学会、平成三十年)一八頁。

北村薫「百人一首配列とミステリ」
北村薫「百人一首配列とミステリ」

これらの外に、国会図書館などで閲覧するにとどまった著作があり、また、私が見逃したであろう著作もある。こうした謎解き本の多発について、北村薫は「もはや、これは一つのジャンルといっていいでしょう」と言う。なお、平成年間(1989~2019)の始めに、どこで伝え聞いたのか、同志社女子大学の吉海直人が、数年前の百人一首に関する論文「『百人一首』配列試論」[1]が示す研究姿勢からは同一人とは思えないほどに極端に飛躍して、突然に異本系の百人一首の存在について言及し始めて、これは新発見であり、自己の研究成果であり、昭和後期(1945~89)の有吉保による『百人秀歌』の発見と比肩される平成期の百人一首研究の最大の業績であると見当違いの自慢話を始めて、かるた史研究者の間で、これはもう東京では既知の学術情報でしょうよと失笑を買ったことはすでに別稿で書いた。 

私は、百人一首という歌絵合せかるたの歴史を研究する上での必要から、昭和後期後半(1975~89)から平成初期(1989~2008)にかけて、百人一首という歌集そのものの経緯についても多少は研究した。それは、昭和五十九年(1984)に、かるた史の研究をしていて、江戸時代初期(1603~52)から前期(1652~1704)にかけて、百人一首かるた、特に歌人像付きのかるたが二條家伝来の百人一首本風の表記ではなく、冷泉家伝来本風の表記を採用していることを発見して驚いたところに発しており、研究の末、一年後の昭和六十年(1985)ころまでに、かるたの表記は本阿弥光悦や角倉素庵の刊本の表記に従っており、これらの刊本が冷泉家流の表記を採っていたのでかるたもそのようになったのだと解読することができた。要するに、かるた屋は、『角倉素庵筆百人一首』(以下、『素庵本』)ないしそれの模本である『尊圓百人一首』(以下、『尊圓本』)という歌人図像入りの百人一首歌集の刊本を手本として百人一首かるたを制作していたのである。この発見によって、発祥期の歌人像付きのかるたは、歌人図像は肉筆画を手本として、和歌本文などの表記は貧乏公家が内職で自己の記憶に基づいて書くことで成立したとする、以前のかるた史研究者が考えていた制作過程についての伝承は疑問にさらされた。また、研究の副産物であるが、かるたと別に、冷泉家風の、三條院の和歌が「この世に」表記である肉筆の百人一首歌集が何点か存在していることも発見して、昭和末期(1985~89)にはすでに、江戸時代初期(1603~52)にそれが確かな一潮流として存在していた事実を理解できた。

このような次第で日本文学史の門外漢で、聞きかじりに過ぎない私なので、織田正吉以降の「秘密」「謎」「暗号」などと題した作品については純粋に一読者として楽しませてもらっていた。そういう立場であり、手元にはほとんど歴史研究者の一般常識程度の識見しかないのに、百人一首の成立を本格的に、専門的に研究している人々の多くの力作にあれこれ言うことは不遜であろう。ただ、かるた史の立場からすると、昭和末期(1985~89)には、①伝承された百人一首という歌集には、二系列のものがあり、そのもっとも顕著な相違は、三條院の和歌が「こころにもあらでこの世にながらへば」であるか、「こころにもあらでうき世にながらへば」であるかであり、②前者は冷泉家に、後者は二條家に伝わったと考えられるが、世阿弥光悦は前者を用いて版本『光悦古活字本』を作成し、角倉素庵の『素庵本』はそれに従って歌人図像付きの版本を作成し、さらにそれを模した刊本の『尊圓本』もその表記に従ったので、こうした歌人図像入り刊本をもとにして制作された江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)の百人一首かるたは冷泉家風の「この世に」表記であり、③他方で、宮中には二條家風の表記の百人一首が伝わり、それを継いだ三條西家の歴代の百人一首伝授を通じて歌学の大名家の細川幽斎に伝わり、後水尾朝廷においてこれが正統のものとされており、したがって、公家本人が自分の記憶に基づいてかるた札に染筆する場合は二條家流の「憂き世に」表記になることがあり、④おおむね元禄年間(1688~1704)に巷で制作される百人一首かるたの表記も二條家風の「憂き世に」表記のものに改められた、という基本線は明確になっていた。百人一首の起源を語る文芸史、和歌史の論者には、せめてかるた史から読み取れるこの程度の認識は持っていてほしいと思った。

こういう情報について、かるた史に関心のあるものの間では知られていたが、外部の世界への発信力が不十分であったことは当方の責任であり反省もするが、平成年間(1989~2019)の議論でなお、冷泉家に伝わったと思われる『百人秀歌』、同じく冷泉家に伝わったと思われる歌順や和歌本文の表記がこれに近い『百人一首』(ただし冷泉流の呼称は『嵯峨中院色紙和歌』)、二條家に伝わったと思われるこれと異なる表記の『二條家本百人一首』の三本の歌集があることを無視して、とくに冷泉家の筋から鷹峯の芸術村の世阿弥光悦に伝わった「この世に」表記のある冷泉家流の百人一首歌集の独自性を理解しないで、百人一首と言えば今日通用している「憂き世に」表記のものが一種類しか存在しないという前提で議論を組み立てる者には、かるた史での認識とギャップがありすぎて違和感が残った。だから、後に松村雄二が言ったように、「平成二年に、同志社大学の吉海直人氏がこの形態の異本を三十本近く洗い出され、『百人秀歌型百人一首』もしくは『異本百人一首』という呼称で学界に紹介されました」[2]という作業は、私たちかるた史研究者が研究してきた成果を、私たちの力の及ばない学者の世界に「紹介」したという意味で評価できると思っていた。

なお、百人一首の発祥期に関する基本史料としては、さらに和歌を書いた色紙がある。これは江戸時代までに様々な人間によって書き留められてきたが、そのなかで、藤原定家自身が書いたとされるものが、後世、「小倉色紙」と呼ばれ、茶席の設えなどで珍重されるようになり、今日まで、真贋取り混ぜて数十枚が残されている。そのほとんどは、定家から宇都宮頼綱(よりつな)に贈られて、嵯峨中院の屋敷に貼り巡らされ、その屋敷が定家の息子、頼綱(よりつな)の女婿である為家(ためいえ)夫婦の居宅に転じた後に、改築の際に襖障子から剥されて保存されたものと判断されているが、残されたものの中にわずかであるが他の色紙に比べると粗末な紙質のものがあり、これは、頼綱(よりつな)に贈呈したものとは別に定家が自家用に手元に置いていたものと考えられている。したがって、厳密に言えば百人一首の和歌色紙には二種類あり、『嵯峨中院和歌色紙』と『小倉山荘和歌色紙』と呼んでおきたい。

これらの色紙について私が最も注目しているのはそこに和歌の本文のみが書かれていて、歌人名の記載がないことである。『小倉山荘和歌色紙』のように定家が自分で研究する際の参考資料としてメモ書き風に作成したものであればそれでもよいが、『嵯峨中院和歌色紙』のように他者に贈って屋敷の装飾に貼り込むものの場合は、歌人名がなければ貼るにも、貼られたものを鑑賞するにも困る者がいるのであり、あえてそれを割愛したのには何か特別の意向があったのであろう。しかし、それがどういう主旨であったのかについて、和歌史研究者の論文からは十分な説明は得られなかった。

そして、私は、『嵯峨中院和歌色紙』を定家が百人一首という歌集に取り組んだ最初の成果物であるとすることには疑問を感じていた。定家の日記『明月記』の記述に基づいて、文暦二年(1235)五月一日に宇都宮頼綱(よりつな)から依頼を受け、同月二十七日に贈呈した『嵯峨中院色紙和歌』がそもそもの出発点であるという旧来の説は、この色紙のデザインを見ただけで成立しないことが理解できる。常識的に考えても、色紙の染筆よりも前に考えられた歌集があり、そこには歌人名が書かれていて、それの和歌本文の部分だけを写したものに違いない。その歌集が今日では残されていない幻の歌集であるのか、それとも、残されている百人秀歌そのもの、あるいはそれよりも以前の別バージョンの原百人秀歌であるのか、さらにはむしろ原百人一首であるのかは分からないが、いずれにせよ、最初から歌人名を外して表記したものを作品としたとは考えにくいところである。なお、増田繁夫[3]は、歌人名の表記のない「小倉色紙」は、歌仙絵に伴うものと考えているが、その歌仙絵に歌人名が付記されていたのであろうか。それならば、和歌の本文だけを色紙にして添付して、和歌そのものの存在を際立たせる意匠として納得がいく。


[1] 吉海直人「『百人一首』配列試論」『國學院雑誌』第八十五巻第五号、國學院大學、昭和五十九年、二〇頁。

[2] 松村雄二『百人一首 定家とカルタの文学史』、平凡社、平成七年、四九頁。

[3] 増田繁夫「百人一首批判」『國文學』第三十七巻一号、學燈社、平成四年、五七頁。

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