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(一)カルタ遊技の伝来

岩手県及び青森県にはこの地に独特の天正カルタ系の「黒札」と、独特の図柄の「花札」がある。

岩手県の旧南部藩には、江戸時代初期(1603~52)までにカルタ遊技が伝わり、江戸時代前期の元禄年間(1688~1704)頃までには、藩主、家臣、領民の間で相当に流行した。カルタ遊技が海外から伝来した時期からすると極めて早い使用例になる。豊臣政権による朝鮮出兵や徳川幕府による大坂冬の陣、夏の陣などへの出陣が契機になったのであろう。太田が編集した『南部叢書』に、カルタに触れた当時の文書史料が収録されており、この時期の地方史の記録としては全国的に見ても稀有な、貴重な情報と考えられる。 

カルタ遊技に用いられる遊具のカルタ札については、当初から京都製のものが持ち込まれていたと思われる。江戸時代の岩手県領域でのカルタ札の実物は残されていないが、隣県の山形県には「黒カルタ」ないし「馬カルタ」と呼ばれる天正カルタ系のもので、幕末期のカルタ札が残されている。これについては、ウェブサイト「日本かるた文化館」のページ上で公開されているので、南部藩の黒札を研究するうえで類似例として参考になる。 

南部の黒札は、残されているカルタ札の版木史料の図柄から判断すると、江戸時代中期(1704~89)以降には、京都市内五條橋通りに所在したカルタ屋の「鶴屋」のカルタ札が伝来していたようである。江戸時代のカルタ業界は、現代資本主義の自由競争社会とは様相が異なり、各地方に特定のカルタ屋の縄張り、商圏が成立し、その地域がそのカルタ屋の得意先となって、安定的な商品の供給と消費が続いた。その地域では、出入りした商人がもたらすそのカルタ屋のカルタ札が広く普及した。当時の京都のカルタ屋としては「松葉屋」と「ほてい屋」が最も有力であったが、「松葉屋」は近畿地方北部から加賀を経て越後に至る北陸地域一帯、また尾張、駿河などの東海地域一帯に商圏があり、「ほてい屋」は近畿から中国地方に商圏をもち、その他西日本一帯に大坂のカルタ屋も進出していた。江戸には、「松屋」や「ほてい屋」よりも、同じ京都でも「笹屋」などのカルタ屋の売り込みが熱心で、江戸では一時は天正カルタ系のものを総称して「笹屋カルタ」と呼ばれていた。南部の黒札もそうした得意先商売の一例で、この地に「鶴屋」の「めくりカルタ」札が持ち込まれて広く普及したことは、「鶴屋」の屋号や家紋の鶴紋などまでが黒札の図柄の一部として把握され、南部の地元で制作されたものに図柄の一部として残されていることから理解できる。 

南部花巻花札
南部花巻花札(制作者不明、明治前期)

一方、花札は、元禄時代(1688~1704)から遊技として存在していたものの、本格的な普及は江戸時代中期(1704~89)後半の京都での木版カルタ札、当時の呼称で言えば「武蔵野」の開発以後であり、南部地方でも江戸などよりは遅れたであろうけれどもほぼ同様であったと推測される。江戸時代の「武蔵野」は、京都のカルタ屋が制作した江戸時代中期(1704~89)ものや後期(1789~1854)のものが数点、残存していることが確認されていて、これも「日本かるた文化館」のページ上で掲載されているので研究上は便利であるが、江戸時代の南部藩領内で制作された南部花札(花巻花)そのものは残存した例を知らない。ただ、残された南部花札(花巻花)版木の図柄から判断すると、江戸時代の花札、当時の呼称では「武蔵野」が伝来していた痕跡があり、伝来した事実は確実である。南部花札(花巻花)は、「武蔵野」の図柄の骨刷りの上に、手書きで大胆に彩色する、その彩色が特徴的で、私は、日本各地の地方札の中でも最も美しい傑作であると思っている。一方、京都の「武蔵野」のように普通に彩色した花札は、南部領内では「京花」と呼ばれていたようであるが人気が低く、近代になって、明治後期(1903~12)以降であろうか、やっと制作が始まったようである。 

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