さて、朝鮮半島の「花闘(ファトゥ)」に戻ろう。第二次大戦後の朝鮮半島では「花闘(ファトゥ)」が盛んに用いられた。そこでは、用具としては、植民地当時に「移入」されたものの残品、日本からの密輸品、貿易再開後は輸入品もあったが、多くは自国内での国産品が用いられていた。朝鮮半島での花札の歴史に関心がある私としては、韓国と北朝鮮の双方での「花闘(ファトゥ)」の遊技事情を知りたいと念願していた。まず、韓国においては、1980年代以降、しばしば訪問する機会があり、その時期に現に使用されていた「花闘(ファトゥ)」を入手することができた。それは、プラスチック製で、戦前の「切りっぱなし」の伝統のままに制作され、図柄では「柳に人物」の札に朝鮮貴族の「両班(ヤンパン)」が描かれ、「芒に満月」の札の満月の中に戦前の兎の餅つきの図に代わるカルタ屋の商標か何か別の図像が加えられており、四十八枚の札の外にエキストラ・カードが四,五枚あるものである。
一方、北朝鮮については、日本から送られた日本製の花札以外にはなかなか出会うことがなかった。ある時、当時箱根で行っていたウォー・ゲーム仲間の国際政治学者が北朝鮮に招待されて訪問するというので、現地滞在中に何とか見つけてきてほしいと頼んだところ、帰国後の土産話で、最高首脳とお会いする機会があったので直接に依頼しようとしたところ、お付きの者が慌てて飛んできて、わが国にはそういうものは一切ございませんのでと発言を封じられたということであった。あきらめかけていた頃に、大阪商業大学アミューズメント産業研究所の研究員であった梅林勲から、東京の神田神保町にある北朝鮮の物産店に同国の国産品があるという情報を得た。急いでその店に行って尋ねたがすでに売り切れていた。ただ、これについては、幸いなことに、同研究所の報告書『花札・かるた展』[1]に掲載されることとなった。それによれば、これは中国吉林省延辺朝鮮族自治州で作られて北朝鮮に輸出された「花闘(ファトゥ)」であり、図柄的には韓国のものとほぼ同じであるが、エキストラ・カードはない。韓国で言えば、プラスチック札が登場した時期よりも一時代昔の古典的な花札の構成である。北朝鮮での花闘の実在を証明したおそらく世界で唯一の貴重な史料であろう。その学術的価値は大きい。
こうしてみると、朝鮮半島での「花闘(ファトゥ)」の歴史と現状のおぼろげな姿が見えてくるが、ただ、韓国での、1970年代にプラスチック製の「花闘(ファトゥ)」が出回る以前、1950年代、60年代に用いられていた紙製の「花闘(ファトゥ)」の時期の史料が欠落していて、長い間探していたが発見することができなかった。ソウル市内にある国立民俗博物館には、この紙製花札の時期の丸正印のメーカーによる木版の版木があり、その刷り出しとともに展示されていたが、同館に問い合わせても紙製花札の実物は見つからなかった。ネットでは、「ポルトガルのトランプが花札に変わったように、1950年代に、かつて「花闘(ファトゥ)」を韓国式に変えようとする試みもあったのですが、ローカライズに失敗し、代わりに札が1ミリ程度の薄いプラスチック材質で床に叩きつけるとカタカタと音のする面白いものに変わりました」[2]とする見解も公表されているが、これでは、すでに1950年代にプラスチック化が進行したような誤解を生む表現である。1950年代、60年代の朝鮮戦争で荒れ果てた国土の韓国に、石油化学工業が成立していて、社会の主要な需要に応え、さらに「花闘(ファトゥ)」のような周辺の品物までプラスチック化できたほどの生産の余力があったとは考えられない。プラスチック化は「漢江の奇跡」の高度成長経済のもたらした1970年代以降の変化であった。
ところが、意外なことに、紙製の「花闘(ファトゥ)」はアメリカにあった。コレクター仲間の友人が経営しているトランプのコレクション・アイテムの販売店で数点、それを発見して、分けてもらうことができた。それは、韓国国内では見たことがないものであった。「桐」のカス札上の制作社名表記が「玉川堂」「富民社」などと漢字表記であり、韓国政府が漢字廃止宣言をして、「花闘(ファトゥ)」の制作者表示もハングルに改められた1970年代よりも前の1950年代、1960年代のものであることが分かる。片田舎のカード・コレクション・ショップのウインドケースの片隅に忘れられたように置かれていた古びた紙製の「花闘(ファトゥ)」には、朝鮮戦争の戦場となった韓国とそこで闘った米軍兵士の戦後史の重みが感じられた。なお、その後、韓国国内で、ニ、三点であるが、1960年代後半期の紙製の「花闘(ファトゥ)」も見つけて入手できた。その中で最もおかしかったのは、紙製の札が紙製の箱に納まっている「オリオン」印の花闘である。このカルタ札を収納する紙箱の表面には「ナイロン花闘」と書いてある。1970年代以降、プラスチック製のものが新製品として人気を得るようになっていったが、それの予兆の時期に、それにあやかったのか、紙製なのにプラスチック製と表示したのであろう。紙製の「花闘(ファトゥ)」からプラスチック製の「花闘(ファトゥ)」への転換期を示す面白い史料だと思っている。
こうした紙製花闘の歴史の最終章に日本のかるた屋が絡んでいる。昭和後期後半(1975~89)のことであるが、東京のニチユー(日本遊戯玩具社)は、花札に伝統的な縁返し(へりかえし)の技法を残している韓国のかるた屋に発注して、安価な花札の制作を試みた。だが、期待した品質が確保できなくて、早々に撤退した。この韓国製の日本花札は、図柄としては日本国内で制作したものと全く区別がつかず、わずかに、韓国側で透明なセロファン紙に包んでその上にMADE IN KOREAとある丸印を捺し、それを日本に輸入して再度ニチユーの包装紙で包んで販売されていた点だけが韓国製であることを示していた。この花札はほとんど日本の市場に出回ったことがないが、私は、当時、ニチユーの本社で、経営者から、発注と撤退の経緯の話と共に分けてもらったかるた札そのものを持っている。これが多分、韓国で作られた最後の紙製花札であろう。
そして、令和二年(2020)になって、アメリカ、ワシントンDCの議会図書館に紙製の「花闘」一組が所蔵されていることを知った。発見者であるマルクス・リケルト(Marcus Richert)によると、これは同図書館に1963年に寄付されたものである。大変に興味ある発見である。この「花闘」の図像を見ると、紋標「松」「梅」「桜」の短冊札に日本語で「赤よろし」や「みよしの」と書かれていた第二次大戦前の「朝鮮花」とは異なり、ハングルで文字が書かれており、典型的に第二次大戦後の韓国の「花闘」と判断される。韓国では、1945年から1970年代まで、紙製の「花闘」が制作されており、それが朝鮮戦争に参加したアメリカ軍兵士の本国帰還時に土産、記念品としてアメリカに持ち帰られていたことがあり、1963年に議会図書館に寄贈されたとすると時期的にも適合する。そして、図像を詳細に見ると、図柄は典型的にこの時期の韓国製の「花闘」であるが、紋標「松」「梅」「蘭(杜若)」「牡丹」「公山(芒)」「菊」のカス札二枚が同じ図柄であり、他方で紋標「桜」「黒萩(藤)」「赤萩(萩)」「紅葉」「梧桐(桐)」のカス札は正しく二枚が異なる図柄である。これは、この札の制作者、順天市の「順天堂」での検品の甘さを示しており、当時、他の品質のよいメーカーではきちんと区別したカス札を組み合わせていたことを思うと、この札の制作者のレベルを推測させることになる。いずれにせよ、こうして紙製の「花闘」の時期の存在が実証できることがうれしい。
いっぽう、「花闘(ファトゥ)」の遊技法の歴史であるが、第二次大戦以前の同時代的な文献、資料は多くは残されていない。この種の遊技については、風俗史、文化史、地方史的な視点からの研究と、民俗学的な研究がありうるが、前者は成果が乏しい。代表的な業績は、アメリカ人の民族学者、スチュワート・キューリンが1895年に発表した“Korean Games, with Notes on the Corresponding Games of China and Japan”であり、それは後に“Games of the Orient”と改題されて版を重ねた。この書は、朝鮮半島の遊技について詳細な紹介を行っている。但し、キューリン自身は日本と中国では現地での調査を行ったものの韓国は訪問せず、それに代えて、イギリスの外交官で、朝鮮、中国で勤務していたW. H. Wilkinson の現地調査と資料提供に依拠したものであったが、そこでは、朝鮮に伝統の骨牌、紙牌類の詳細な紹介はあるものの、「花闘(ファトゥ)」についての言及はない。
いっぽう、第二次大戦後については、「花闘(ファトゥ)」は本当に古い時期から親しまれていたほかの遊戯品と並ぶ、伝統的な遊技用品、娯楽品と理解されている。昭和三十九年(1966)に韓日両国で出版された『韓国、その民族と文化』[3]では、「花闘(ファトゥ)」は、「古来の遊戯と娯楽」の一種として、「投壺」「ぶらんこのり」「板とび」「たこあげ」「擲柶」「陞卿図」「双六」「骨牌」「錢打」「ゼギ蹴り」「囲碁」「将棋」「麻雀」とともに紹介されている。ちなみに、「現代的な韓国の娯楽」に挙げられているのは「玉つき」「狩猟」「社交ダンス」「カメラ」「飼鳥・養魚」である。両者を合わせて、「遊技・娯楽」編を担当した徐尚徳は、「花闘(ファトゥ)」についてこう説明している。
花闘 花闘は、日本の花札または花カルタに似たものである。これは、四八枚の札に花鳥をえがいて勝負をする遊戯の一種である。この四八枚を、四枚ずつ一組に分け、各組に一月から一二月までの月名をつける。つまり、月あたり四枚ずつの相札をつくり、一月は松、二月は梅、三月は桜、四月は黒はぎ、五月はらん、六月はぼたん、七月は紅はぎ、八月は名月(坊主)、九月は菊、一〇月はかえで、一一月はきり、一二月は雨という。花闘は五点札が一〇枚、一〇点札が九枚、二〇点札が五枚となっていて、総点数二四〇点とする。「光」といえば二〇点札のことで、松、桜、坊主、きり、雨を合わせて五光という。「ヤク」(花闘あそびにおける用語で、一種の特権をいう)は一般にかえで、草(らん)、菊、雨の四種で、各四枚もてばいい。「青タン」はかえで、ぼたん、菊の五点札(青帯)三枚をそろえればよいし、「紅タン」とは松、梅、桜の五点札(紅帯)三枚のことである。しかし、近来は六〇〇点満点の六百とか、ナイロンパンとかいうのがはやっており、「ヤク」や「タン」の計算法もまちまちであり、また、ひまつぶしによく行われている占いの方法も、多種にのぼる。花札を用いるばくちの方法も、またさまざまであって、これは、もっとも大衆化した室内娯楽にぞくする反面に、悪弊も少なくない。 |
[1] 大阪産業大学アミューズメント産業研究所、『第三回特別展示図録 花札(はなふだ)・かるた展』、同研究所、平成十六年、二二頁。
[2] 「[コラム]似ているようで違う韓国の花闘と日本の花札」『韓国のイマを伝えるもっと!コリア』2016年2月8日、http://mottokorea.com/mottoKoreaW/Special_list.do?bbsBasketType=R&seq=31542
[3] 『韓国、その民族と文化』、学園社、昭和四十一年、四八三頁。