この二組の牌は、基本的に同じ構成であるので、これをグロバー牌と呼ぶことにする。スタンウイックの論文をもとにまとめると、それは以下のようなものである。

まず、グロバー牌のうち、AMNH牌は、牛骨と竹でできており、縦十九ミリ、横十五ミリ、厚さ十二ミリである。BMA牌は、象牙と竹でできており、縦十八ミリ、横十四ミリ、厚さ十ミリである。いずれも小型の牌であることに注意したい。

牛骨(象牙)と竹の接合の方法では驚くべき新発見があった。麻雀牌は、日本ではアリ、英語でダブテイル(鳩の尾)と呼ばれる末広がりの形で牛骨(象牙)が竹の中に食い込む形で加工されていて、凸の部分は裏面の竹材の中央を横に走っている。私は、古い牌ではこの食い込みがどちらかといえば下駄の歯のように四角い食い込みで不十分であって、外れやすいという欠点があったものを、1920年代に、特に欧米人の注文によって改良されてしっかりと固定するようになったと判断していた。ところが、この発見で、それは基本的に訂正しなければならなくなった。すなわち、グロバー牌の場合は、スタンウイックによれば、1870年代のものであるのにすでにしっかりしたダブテイルの形で接合されており、しかもそれが、横にではなく、縦に切り込まれているというのである。この発見には、思わず本当かという愚問を発するほどに驚かされた。

一枚の牌のうちで、牛骨(象牙)と竹の厚みの比率はどうなっていたのであろうかも気になるポイントである。一般には、清朝の時期の牌では牛骨(象牙)の部分が分厚く、民国の時期になると薄くなって竹の部分が厚くなるといわれている。残念ながら、スタンウイックはこの情報を記録していないし、牌の横からの写真もないので、分からない。

グロバーがAMNH牌に添付したメモによれば、一組の牌の構成は、筒子牌が四十枚(「白」牌四枚、「一筒」牌~「九筒」牌が各四枚)、索子牌が四十枚(「白」牌四枚、「一索」牌~「九索」牌が各四枚)、万子牌が三十六枚(「一万」牌~「九万」牌が各四枚)、「中」「東」「南」「西」「北」の文字牌が各四枚、「春」「夏」「秋」「冬」の文字牌が各一枚、「東王」「南王」「西王」「北王」の文字牌が各一枚、「天王」「地王」「人王」「和王」の文字牌が各一枚ということになる。

グロバーは、このような区分けをどのような情報に基づいて行ったのであろうか。それは直接は明らかでない。しかし、グロバーは麻雀についてよく知っていたと思われる。これには、現地で得た情報が基礎になっているのであろう。「中」「東」「南」「西」「北」という文字牌が各々四枚の牌というグループになっているのは特に興味深い。麻雀の遊技法に触れた古い文献の中には、「東」「南」「西」「北」は、その方角に座っている人が三枚を得たら一翻役で、「中」は「東」「南」「西」「北」の誰が三枚を得ても一翻役であるとするものがあるが、グロバー牌の構成はこの説明に符合している。なお、グロバーは、これらの牌を説明する際には、正しく麻雀での方角の順序の言い方、「東」「南」「西」「北」と説明している。普通、英語では「North」「South」「East」「West」ないし「North」「East」「South」「West」の順である。日本語で通常「東」「西」「南」「北」と言うところを「東」「南」「西」「北」と言うと不自然で言いにくいように、英語を日常語とする人にとっても「East」「South」「West」「North」という順は不自然で言いにくいのであり、グロバーが、麻雀に固有の順序を良く記憶していて、それだけ麻雀の遊技に精通していることを示唆している。

また、麻雀では、「東」の右隣が「南」であり、左隣が「北」である。これはちょっと変である。仮に麻雀をする際に初めに麻雀牌を上下二段に積むが、これが城壁を意味するとしたら、この町では、東門の右隣に南門があり、左隣に北門があることになる。現実の戦争では、侵略者に抵抗するために、標識を付け替えて実際とは逆の方向に敵軍を誘導するレジスタンス運動の話が各地に残されているが、これを麻雀卓の周りで実現する理由が分からない。大正年間(1912~26)に朝鮮、京城(現在のソウル)に居住していた蒲池良介などはこう述べている。

東(トン)南(ナン)西(シイ)北(ペイ)の札(ふだ)は地文學(ちぶんがく)の方位(ほうゐ)から言(い)へば東(とう)北(ほく)西(せい)南(なん)と言(い)うべきを支那人(しなじん)は如何言(どうい)ふ意味(いみ)で取(と)り違(ちが)へたものか、此(こ)の麻雀(まあじやん)に限(かぎ)り東(トン)南(ナン)西(シイ)北(ペイ)と唱(とな)へ座席(ざせき)及(および)び廻轉(くわいてん)の方位(ほうゐ)も總(すべ)て之(これ)でやつて居(ゐ)る。之(こ)れは一寸考(かんが)へると頗(すこぶ)る可笑(おか)しな事(こと)になるが支那人(しなじん)は平氣(へいき)でやつて居(ゐ)る[1]

そこで蒲池は、風牌を「春」「夏」「秋」「冬」に変えることを提唱している。一方、グロバーは、蒲池のようにクレームを言うことなく、この不思議な異文化に耐えている。

もうひとつ、グロバーは、「中」が方角を示す文字牌の一種と考えている。しかもそれを順序の冒頭にもってきている。「中」には最初から方角の「中心」という重要な意味が与えられていたと考えられるのであって、後から加えられた牌という印象はない。

AMNH牌を詳細に見ると、「東」「南」「西」「北」の文字牌には、外側が赤、内側が青の二重枠がついている。この二重枠は、「天王」「地王」「人王」「和王」にもついている。これを加えると、二重枠牌のグループは二十枚である。一方、四枚の「中」と、一枚ずつある「春」「夏」「秋」「冬」、「東王」「南王」「西王」「北王」の文字牌には、緑の一重枠が付いている。このグループの牌は十二枚である。このほかに、無地の「白」牌が八枚あるが、枠のついた「白」文字牌はない。また、「発」文字牌もない。

私には、この枠の線が、牌のグループ分けのしるしであるように思えてならない。焦点は「中」という文字牌である。これが「東」「南」「西」「北」の方角牌と同じグループであったとすると、そこから抜け出して、「發」「白」と三元牌のグループを構成すると理解するのには、相当の無理がある。だが、枠線が示唆するように、「中」文字牌が方角牌のグループに属さないとしたら、同じように四枚で孤立している立場の「白」文字牌とともに三元牌の形成に向かうのもよほど自然に行える。グロバーの、「中」は方角牌の中心という考え方にもかかわらず、私には、「中」はもっと違ったニュアンスで理解されていたのではないだろうか、と思えるのである。

もう一点興味深いのは、八枚の「白」牌の扱いである。グロバーは、それが四枚ずつに別れて、筒子牌のグループと索子牌のグループに分属されるといっている。これは仰天すべき情報である。一方で、古い時代、三紋標、三十六枚編成であった馬弔(馬吊)紙牌には、「空湯」や「無銭」などという、ゼロを意味する強いカードがあったから、それがデュプリケイションを繰り返して成立した「碰和」[2]にもこういうエキストラ・カードがあり、その影響が初期の麻雀骨牌に残っているということも考えられるが、八枚の「白」牌は全く同じであるから、どれが筒子のゼロで、どれが索子のゼロであるのかの識別ができない。八枚の牌はどちらのものとして使っても良いというのであると、これは驚くべき使い方になる。不思議としかいいようがない。

かつてアメリカの民族学の研究者で、東アジアの遊戯を研究していたスチュワート・キューリン(Stewart Culin)は、1893年の「さいころとドミノを使った中国のゲーム」という論文[3]において、BMA牌について、実見に基づいて紹介している。キューリンは、この牌の構成要素を、筒子牌三十六枚、索子牌三十六枚、万子牌三十六枚、「北」「南」「東」「西」「中」の文字牌各々四枚で合計二十枚、「北王」「南王」「東王」「西王」「中王」の文字牌、「天王」「地王」「人王」「和王」の文字牌、「春」「夏」「秋」「冬」の文字牌各一枚で合計一三枚、それに空白の牌八枚で、すべてを合計すると百四十九枚と説明している。「方角を示す王」には、「中王」牌があったというのである。

現在保存されているBMA牌には「中王」牌がない。「一筒」牌も一枚ない。キューリンが調べた後に、何らかの事情で紛失したのであろう。今回再発見されたときの状態は、所蔵する博物館の登録漏れのままで、他の中国のゲーム器具と一緒に箱に入れられてころがっていたのであるから、管理の悪さが紛失を招くことはありえないではない。そこで、もし、キューリンに誤解がなければ、この牌のセットには「中王」牌があったと思われるので、それを入れて、一組は百四十九枚ということになる。

AMNH牌は、現在、百四十八枚中、五枚が不足している。「九筒」牌、「九索」牌、「春」牌、「北王」牌、「天王」牌が一枚ずつ欠落しているのである。このほかに、もし、キューリンの記述がグロバー牌に共通するものであったとすれは、「中王」牌があって、それが今では欠落していることになる。

一方、BMA牌は、百四十三枚が残されている。「一筒」牌が一枚欠落している。また、「白」牌が八枚中四枚欠落して四枚残っている。「中王」牌はここにもない。スタンウイックは、欠落している「白」牌のうち三枚が、紛失した「二筒」牌、「九筒」牌、「九索」牌に補充されて使われていると述べているが、もう一枚、「南」牌にも補充された牌があることは見落とされている。


[1] 蒲地良介『支那が生んだ世界的遊戯 麻雀の遊び方』、家庭娯楽研究社(京城)、大正十三年、九二頁。

[2] 「碰和」とその麻雀との関係については、大谷通順『麻雀の誕生』、大修館書店、平成二十八年が二十世紀初頭の上海の遊郭を題材にして主要なテーマとしており、参考になる。

[3] Stewart Culin, Chinese Games with Dice and Dominoes. Report of the US National Museum.1893, p.519.

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