以上の検討によって、今日、十九世紀の麻雀牌の歴史に新しいスポットライトが当たるようになったといえよう。簡単に要約すると次のようになる。

(1)スタンウイックによるグロバー牌の発見により、麻雀史研究は、それまで、ウイルキンソン牌を軸にして十九世紀末から歴史を語っていたのを、約二十年遡って、1870年代の麻雀の歴史から語ることができるようになった。私は、スタインウイック本人から直接に連絡を受け、史料を送ってもらい、驚愕した。スタンウイックの功績はいくら強調しても足りない。

(2)ここではさらに、もう一人の研究者の名前を上げなければならない。フランスのテリー・デュポリスである。実は、スタンウイックの研究を支え、麻雀史の基礎的な情報を提供し、また、ヒムリーの文献を翻訳してスタンウイックに提供したのもテリー・デュポリスであった。彼はこのほかに、グロバーの履歴の探索や、ウイルキンソンの1925年のメモの発見などでも活躍しており、この論文の生みの親といってよいほどである。謝意を込めてこのことを特に記しておきたい。

(3)1870年代にグロバーが入手した麻雀牌は、図柄的には「一索」が「青蚨(チンフー)」で、三元牌が未成立で、「東」「南」「西」「北」の文字牌のほかに、「東王」「南王」「西王」「北王」「天王」「地王」「人王」「和王」の八種の「王」の牌が一枚ずつある。これらの牌がゲームの中でどのように使われたのかは不明である。

(4)その後、麻雀は、太平天国鎮圧後の華中で対外貿易港として栄えた上海市、寧波市において変化し、1870年代に、近代型のものに変わった。いわゆる「中發牌」あるいは「寧波麻雀牌」の誕生である。デザイン的には、「發」を加えたことと、文字牌の枠模様を廃止したことが最大の特徴である。花牌はむしろ整理され、数が減っている、

(5)「中發牌」として残されているものの中では、江橋牌が最もよくこの時代の麻雀牌の特徴を伝えていると思われる。また、この時期に、中国北部、北京で、西太后を中心とする清朝の宮廷周辺でこの遊技が流行し始め、遊技用具にも工夫が及び、公侯相将麻雀牌や昇官牌が考案された。麻雀博物館には、野口牌を初めとして、このジャンルでの貴重な史料も多い。

(6)1890年頃のウイルキンソン牌では、同じ寧波麻雀牌でも、江橋牌に比べるとデザイン的にはスッキリしている。二十世紀初頭のローファー牌も同様である。そして、1910年前後のキューリン牌は、「一索」牌が鳥の姿になっており、「八索」牌がM索になっており、近代型の麻雀牌はこの時期に完成をみたといえる。

チャイナドレス姿で麻雀を楽しむ
アメリカの女性たち

(7)辛亥革命以後の中国では、自由麻雀が盛んになり、また、1920年代に入ると欧米で麻雀の遊技がブームとなり、中国から輸入した麻雀牌を使い、チャイナドレスをまとった女性が卓を囲むのが最新の流行となった。この新規の需要、大きな市場を目指して中国での麻雀牌の制作は活発になり、様々な新製品が登場した。これについては次章で扱う。

(8)ここで、一点、重要な留保をしておかなければならない。麻雀は、長江流域の地域が発祥の地であり本場であるが、そのほかに、清朝の朝廷があった北京市でも独自に発達した。そのほか、華南地域など、中国の全土に広まった麻雀には、各々の地方色がついていたであろう。さらに、東南アジアに流出したものもある。その意味では、ここで検討してきた麻雀の歴史は、十九世紀の中国といっても、中国中部、長江沿岸地方の限られた地域を中心とした歴史の検討である。別の地方に存在していたであろう独自の麻雀史の展開は、そのものとして研究され、成果が公表されなければならない。だが、それはそれで、別稿の課題となるだろう。

(9)最後に、麻雀博物館について付記しておきたい。同館は、平成十年(1998)に、大牟田市立三池カルタ記念館(現在の大牟田市立三池カルタ・歴史資料館)で東アジアのカルタ展が開催され、そこに江橋コレクションの麻雀牌が展示されたことを名古屋市の浅見了から伝え聞いた竹書房の野口恭一郎が同館を訪問し、麻雀牌の多様な展開に驚き、以前から野口が心中に温めていた博物館を設立して恒常的に展示公開する構想が実際に実現可能であることに思い至ったところから始まった。その構想はその後の野口のエネルギッシュな努力の傾注により急速に発展し、浅見、江橋はそれに協力し、江橋は、同館の顧問に就任するとともに、三池カルタ記念館で展示した江橋コレクションの全部を麻雀博物館に寄贈して、同館における所蔵と展示の基礎を提供した。また、博物館が単なる見世物小屋ではないのは、対象領域に関する専門的な調査、研究を進めて、収蔵、展示に一本の筋を貫く必要がある。この点では、三池カルタ記念館での展示が先例となり、さらに江橋、浅見了、鈴木知志らが野口に協力した。館長に就任した大隈秀夫や、麻雀界の木下裕章、石本洋一、田邊恵三、棋士の小島武夫、井出洋介らの物心両面での支援、助言も力になった。

同館は、開設準備の段階でも、開館後でも、中国、東南アジア、欧米にまで広く調査、蒐集の手を伸ばし、麻雀牌のみならず、麻雀卓などの遊技設備品の蒐集も行い、また、欧米の文献史料も蒐集した。一方、江橋は、長年中国で蒐集した文献史料、とくに文革後の開放期の文献資料を提供した。その多くは中国国内でもすでに散逸しており、北京図書館でさえ所蔵していない希書も多かった。そして特筆するべきなのは、当時竹書房の社員であった鈴木知志が生涯をかけて蒐集した日本の文献コレクションを一括して寄贈したことである。これは世に知られたことのない全く無名のコレクションであったが、内容は驚くべき網羅的で膨大な蒐集品であり、国立国会図書館などの公的な施設はもちろんのこと、全国いかなる研究機関、研究者個人も所蔵していない、誰も見たこともなければその所在を考えたこともない希書に満ちており、おそらく再現不可能な唯一性の域に達した麻雀史の文献史料の宝庫であった。鈴木は自身では博物館のコレクション中に納まれば良しとしていたが、その内容の充実に感銘を受けた江橋が顧問の立場で強く主張して、これを「鈴木知志文庫」と命名して、博物館の一隅に特設コーナーを設けて展示保存することとなった。野口は、欧米の文献史料も広く蒐集したので、博物館の所蔵する、日、中、欧米の文献史料は世界一の規模に達した。

同館の開設は、日本国内および世界各地で驚きをもって迎えられた。開館後も野口の物心両面での尽力に支えられて調査、研究が継続して行われたこともあり、ついには、中国や欧米でも一流の博物館としての評価が定着した。特に中国は、本来、麻雀の発祥の地である自国から、希少な歴史史料や文化財が流出していたことに驚き、同館の見学のために訪日して教えを乞う例が増え、また、中国各地で同様の博物館を設立しようとする試みも繰り返され、浙江省寧波市、四川省成都市では日本の麻雀博物館の支援協力の下で開設にいたった。そして、平成年間後期に博物館が休館すると、日本と中国の間で売却の交渉がもたれ、結局、博物館の所蔵品は一括して中国の湖南省に移され、展示公開される運びとなった。日本の研究者としては、日本の麻雀史の重要な文献史料と物品史料が手元から離れるのは残念であったが、中国に行けば利用できる状態であり、平成年間に中国の麻雀史の研究者が自国の歴史を学ぶため日本を訪れたように、今度は日本の研究者が自国の歴史を学ぶために中国を訪れる順番になったということである。いずれにせよ、世界的に見ても唯一無二のコレクションが、バラバラに分解されることなく、一つの塊である状態を維持していることはすばらしい。日中両国の関係者の友好と協力の下で、今後も広く活用されることが望まれるところである。

なお、麻雀博物館が購入した麻雀牌や関連史料には、真贋の点で疑問のあるものも含まれている。こういうトラブルはどの博物館、美術館にも存在しており、私も何か所か、博物館、美術館の開かずの部屋を知ることがあった。博物館や美術館、特に公的な資金で経営されている館が購入し、記録も残してあるものに贋作が入っていれば購入の責任が問われることになるので、贋作であることを認めて削除、廃棄とするわけにもいかず、そこで、あらゆる理屈を動員して贋作であるという結論が確定しないようにするとともに、館内の目立たない場所に秘密の所蔵庫を用意して疑問のあるものはそこに収納して、不用意に再利用されることがないように死蔵させる例が多いのである。

だから私は顧問に就任した直後に野口にその話をしたし、また、およそコレクションというものは清濁併せ呑む器量がないといいものは集まらない。麻雀博物館は億を超える予算での事業となるのであるから当然に有象無象が群れ集まってくると予測されるが、多少のことには寛大な気持ちで接してほしいと助言した。じっさい、開館の前後には、良い品物も数多く集まったが、とんでもない品物も寄ってきた。

私は、ここでこのスキャンダラスなブラック・ヒストリーを逐一ぶちまける積りはない。ただ、博物館の展示の解説と『麻雀博物館大圖祿』の表記には気を使ったことは述べておきたい。骨董商、特に中国人の骨董商が持ち込むものには注意を払った。物品の鑑定、年代測定が大げさで、それにともない提示される価格は高額なものに跳ね上がる。私自身も中国にはよく行っていたので、骨董店や骨董市で様々なものを見かけたが、内容に難点があって購入を見送ることが多かった。それが、数か月後には、購入を見送った物そのものが、一層古めかしい味わいを付け加えられて、いかにもといえる故事来歴をまとって、けた違いに高額で館に持ち込まれてくることが何度もあった。そして、館の関係職員の中に、その者が信用できる骨董商であることと、持ち込んでくるものが真正であることを熱弁し、購入を強く勧める者がいた。

具体的な例を挙げればきりがないのでここでは一番深刻な「馬弔(馬吊)」版木の件だけを説明しておこう。これは、麻雀博物館の開館準備の段階で持ち込まれたものである。持ち込んだ中国人の骨董商の説明では、いずれも清朝の時代の版木という触れ込みであったが、一見して図柄が清代にはありえなく現代的で、古い時期のものかと問われれば、いやはやと答えるようなものであった。決定的なのは、清代初期のあるカルタ屋の版木とされるものと、清代末期とされる別のカルタ屋の版木が、木目から裂け目までぴったり一致しており、一枚の材木をのこぎりで切断して加工したことが歴然としている点にあった。百年以上も時間をおいて、二軒の別々のカルタ屋が、一枚の同じ木材を使って版木に仕立てたというストーリーになるので、その大胆不敵さに恐れ入った。木材も清代のものといえるほどに古いものではなく、どちらにも同じペンキのシミが付いているのもおかしかった。ただし、清代の初期に建てられた寺院の建材に、近代になってから現代の化学的なペンキが付着してしまう事故が起きた可能性はあるのだから、この一事で木材の古さ新しさを判断することは危険であるが。

私は以前に中国国内のある都市で、骨董の贋物を作っている村を一人で訪ねたことがある。密かに隠れて目立たぬように生息している村で、日本人の来村が珍しかったのか、村民たちが近づいてきて、何を探しているのかと問うので、古い麻雀牌だと答えると、この木で明代の牌を作ろうかと言ってきた。私が、いやそれは困る。麻雀牌は清代の1860年代頃の発明だから、何百年も前の明代のものがあったら一見して贋物だろうと言うと、いや、その心配はない、この材木は、明代の寺の羽目板を引っ剥がして持ってきたものだから年代を科学的に測定しても十分に間に合っている、ということだった。こんな話し合いで打ち解けて、贋物に古色を付ける秘法をいろいろと教えてもらった。昨日焼いたばかりのような磁器の壺がみるみる元代の染付に化けるので感心した。別の家では墓から掘り出したばかりのような泥の着いた秦代の兵馬俑を作っている。そこで私が、秦の始皇帝は本当に偉大な皇帝だ。死んでから二千年以上たつのに、人民は皇帝を偲んで今にいたってもなお墓に入れる兵馬俑を作り続けている、といったら変な顔をするので、さらに、この村はすばらしいタイムマシンの村だ、あなた達は自分で好きな時代を選んで生活している。あの家は秦代に生きて兵馬俑を作り、あの家は北宋に生きて青磁の壺を作り、あの家は元代に生きて染付の大皿を作り、あの家は明代に生きてすてきな着物を作り、そしてあなたの家は清代に生きて宮廷の調度品を作っている、と言ったら、面白いことをいうやつだと一同大笑いになった。この時の経験が、その後、骨董品の贋物を見破るのにずいぶんと役に立つようになった。

またある時には、「馬弔(馬吊)」の回転式版木というものが持ち込まれたが、それは、パンや麺類を作る際の木製のロールで、使い古した後からその表面に「馬弔(馬吊)」の図柄を彫りこんだという珍妙な物であった。ロールに顔料を付けて紙の上で一回転させれば一組の「馬弔(馬吊)」ができ上るというイメージである。昔のガリ版の印刷機のように使う積りであったのだろうか。それとも、「馬弔(馬吊)」札の模様のあるパンでも作る気であったのであろうか。清代の版木なのに近代のテニスラケット模様というものもあった。妖怪尽しとか魚尽しとか、見たことのない様に珍しい図柄のものも多かった。木版印刷の版木は、使用すると既使用感が付くものであるが、まだ彫線がシャープで、ほとんど使用されていないのに使用済みとされる不思議な古物も多かった。

私は、当然であるが、これらは贋物だから使わないようにという助言をしたが、その時点ですでに博物館は、これらの版木を真贋鑑定のために東京で江戸期の版画を復元している有名な企業に見せており、確かに清代の古い版木であるとの鑑定を得ており、開館記念の記念品として売り出すために、制作費用は高額であったがこれを刷り出す契約を済ませており、それを取り消すことはできないし、『麻雀博物館大圖祿』にも掲載するとの主張が止まらなかった。最後は、担当の職員から、先生は俺の仕事を妨害する気かとすごまれもした。そこでやむなく、版木とその刷り出しの説明で、「清代馬弔」を「清代模様馬弔」に変更するなど、あまりに露骨な誤りを是正するだけで妥協して開館した。『麻雀博物館大圖祿』の発刊後も、「歴史を紡ぐ馬吊牌の版木」の部分は、掲載されている版木が歴史史料としての価値が疑わしいのでほとんど見ていない。今回、久し振りに改めて見てみた。妙に懐かしかったが、今になってもまだ、監修者として周囲の人々をだましたようで心が痛む。

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