こうして花牌はその最盛期を迎えた。二十四枚の全体を「花牌」と呼ぶが、「絵牌」とも呼んだ。1920年代の日本の文献で花牌を「絵の模様の印刻したもの」[1]、「花駒(絵駒)」[2]と呼んでいるものがある。欧米の文献で花牌をピクチャーと呼ぶものもある。いずれも広義の絵牌の意味である。

ところが、過ぎたるは何とやらで、これだけ花牌が多くなると、テン牌は簡単だし、待ちも多くなりすぎて、勝負が偶然性に左右されて決まり、ゲームに面白味がなくなる。そこで、百六十枚構成の麻雀の時期は短く、まもなく、花牌を整理縮小する方向に向かった。花牌のうち、絵牌は廃止され、听用牌は四枚に減少して「混子牌」「恵牌」「百搭牌」「白搭牌」[3]などと呼ばれるようになった。財神牌も四枚に減少して「季花牌」「花牌」と呼ばれるようになった。

今日の中国では、花牌四枚を使うものを「半花麻雀」、八枚使うものを「花麻雀」と呼ぶ。これらを「有絵麻雀」と呼ぶこともある。実際にこうして遊んでいる地方もあるが、実際には「花麻雀」は衰退していて、花牌を使わない百三十六枚の「素麻雀」が盛んである。

中国以外の国では、韓国、日本は花牌抜きで遊ぶ。東北部の「素麻雀」の影響であろうか。他方、中国南部、東南アジア各地では「花麻雀」が有力である。もともと花牌を好んで使ったのは、南中国の人々と上海の租界を中心とした外国人であり、その影響が残ったのであろうか。タイ、ベトナム、マレーシア、シンガポールの麻雀には今でも多数の花牌がある。

花牌の粛正を大胆に行ったのが寧波の秀才、陳魚門であると言われている。彼は、花牌を使わない百三十六枚一組の「素麻雀」を提唱し、それが広い支持を集めた。不思議なことに日本では「清麻雀」と呼ばれているが、中国で「清麻雀」と呼んでいる最近の例は知らない。東北地域は早くから「素麻雀」が盛んであるが、「清麻雀」は清(シン)の麻雀、一方「花麻雀」は中華の麻雀と解するのは考えすぎであろうか。

「赤五筒」「赤五万」「赤五索」牌
「赤五筒」「赤五万」「赤五索」牌

なお、日本では、こうした花牌の機能に近いものとして、昭和後期(1945~89)に流行して定着した「ドラ牌」がある。王牌の中の一枚をひっくり返して、それの次の牌、「一万」が出れば「二万」、「五索」が出れば「六索」、「九筒」が出れば「一筒」、「東」が出れば「南」、「北」が出れば「東」、「白」が出れば「發」、「中」が出れば「白」が「ドラ牌」であり、上がった時にこの牌が手中にあれば、一枚に付き一翻を加算する。これにより、手が大きくなって興味を増すが、運頼みの要素も強くなるのでこれを邪道として排斥する考え方ももちろんある。またさらに、「赤五筒」がある。発祥の地は大阪で、考案者に直接聞いたところでは、昭和三十九年(1964)の東京オリンピックにちなんだ工夫であった。当初は、四枚の「五筒」牌のうちの一枚を赤色に染色し、上がった時にそれが含まれると一翻増やされる。ところが、こうすると、筒子を好んで集める傾向が出てきてゲームが歪むので、「赤五索」「赤五万」を加えてバランスを回復した。だが、元来が「赤五筒」であるので、それだけは二枚にして、結局、「赤五筒」が二枚、「赤五索」と「赤五万」が一枚ずつという使用法も広まった。「ドラ牌」も「赤五筒」も中国の花牌のようにゲーム途中で横に出して使うものではないし、ジョーカー牌でもないが、一枚で一翻増えるという発想は共通している。


[1] 林茂光『中国骨牌 麻雀』、華昌号、大正十三年、四頁。

[2] 清雀倶楽部『麻雀必勝の秘訣』、太陽社、昭和四年、一六頁。

[3] 姚揚『怎様打麻將』、陝西科学技術出版社、一九八七年、一頁。

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