① 切り離しの細工は日本では他に例がない

大明萬暦かるた硯箱
大明萬暦かるた硯箱(永見徳太郎旧蔵)

まず、永見説公表の直接の契機になった「カルタ版木硯箱」について検討してみたい。この硯箱は、上蓋に四列×五枚で二十枚、底箱の横面に、上下辺は二列×三枚、左右辺は二列×四枚で合計十四枚、全部で三十四枚のカードの版木を使って作られている。カルタは一組四十八枚だから、さらにもう一段、横面に十四枚のカードの版木を使った箱があったはずだが無くなっている。

永見は、このカルタ版木をいくつかのポイントで中国製と考えた。その着想はすばらしいが、具体的な検討ではカルタの図像研究の視点からすると不十分である。ここでは永見説を私の研究で補強して説明しておきたい。

十六世紀のヨーロッパのカルタでは、図像のある表紙(おもてがみ)に手彩色して、何枚かの芯紙(しんがみ)を貼り合わせた後にカード大に切断し、それに一回り大きな裏紙(うらがみ)を貼り合わせて、裏紙のはみ出した部分を折り返して表紙の縁にする、いわゆる「縁返し(ヘリかえし)」の手法が用いられている。この時期のポルトガルのカルタは残っていないが、類似のスペインのカルタとしては、フロレス[1]というカルタ屋の一組分の表紙(おもてがみ)と十数種類の裏紙(うらがみ)のサンプルが残っていて基準史料とされている。このフロレスのカルタの場合も、裏紙(うらがみ)のカード一枚分のサイズが裏紙(おもてがみ)のカード一枚分より一回り大きめなのでこれが縁返し(ヘリかえし)で制作される予定であったことが分る。日本はそれを真似たのでカルタは最初から縁返し(ヘリかえし)で作られている。例外はない。

この「カルタ版木硯箱」のカード図像の周囲は斜線で飾られている。それは、裏紙(うらがみ)に多く用いられた斜線模様が縁返し(ヘリかえし)で表面の縁を飾っているという意味である。実際、初期のカルタでは裏紙(うらがみ)の模様としては斜線のものが多く、兵庫県芦屋市の滴翠美術館にある「三池住貞次」製の「ハウのキリ」のカード[2]もそうである。ほかに、手描き、手作りの「天正カルタ」に裏面が市松模様のものもある[3]し、後の時代になると高級品は裏紙に銀無地ないし金無地のものが使われるようになり、縁返し(ヘリかえし)は銀縁(ぎんぶち)ないし金縁(きんぶち)になる一方で、普及品は黒一色の裏紙(うらがみ)になり、黒縁(くろぶち)のカルタが作られるようになった。

だが、そうすると奇妙である。本来、表紙(おもてがみ)の図像と別に用意される裏紙(うらがみ)に印刷されて縁返し(ヘリかえし)されるべき部分が表紙(おもてがみ)にすでに彫られている。こうするとカードの大きさに切断したときに一見縁返し(ヘリかえし)のカルタのように見えるが実はそれに必要な細工の手順を省略できる。こういう手抜きの安価な制作方法を「切り離し」と呼ぶ。ポルトガルのカルタでは十六世紀のものからすでにこうした「切り離し」の作例があるが、日本でそれが使われるようになったのは明治時代(1868~1912)のことであり、江戸時代初期(1603~52)にはこの「かるた版木硯箱」以外にこの技法を用いた例はない。一方、中国では、紙牌は伝統的に「切り離し」の手法で作られていたのであるから、こういう縁返し風の簡略なカルタがあっても不思議ではない。つまり、「カルタ版木硯箱」からは外箱の「大明萬暦かるた硯箱」との記載の通りに中国製の匂いがするのである。

② 版木でのカードの並び方

天正カルタ硯箱拓摺り蓋表面 及 側面図
天正カルタ硯箱拓摺り蓋表面 及 側面図(『うんすんかるた』)

もう一点気になるのは、版木の構成である。『うんすんかるた』にあるこの版木の拓摺りをよく見ると上蓋では縦に四枚、横に五枚、合計二十枚のカルタ図像があり、その下三段に、二本の亀裂が横に入っていることが分かる。この亀裂のうち、上から二段目のものは四列に及び、三段目、四段目のものは三列に及んでいる。これは、この部分が元々三段×四列で一枚を構成する木板であり、後に乾燥による亀裂が入り、その後に硯箱に仕立てたという経緯を説明している。つまり、亀裂がかかわっている下三段は、横板の状態であったことになる。私は、このカルタを制作した職人は、紋標「イス (剣)」のカード十二枚を一枚の版木で彫ったと考えている。

版木を彫った職人は、この版木の右から紋標「イス」のカード十二枚を三段、四列に彫り、その左の空いたスペースに、上から下に、縦に紋標「コップ (聖杯)」の「ソウタ (女従者)」「ウマ (騎士)」「コシ (又は「キリ」・国王) 」を三段に彫った。そして、その左側の空いている部分に、さらに「コップ」の「ドラゴン」「八」「九」の三段のカードを彫り、「コップ」の「五」「六」「七」の三段のカードを彫り、もう一列、「コップ」の「四」「三」「二」のカードを彫った。全部を合計すれば三段のものが八列で二十四枚である。このうち「コップ」の「ドラゴン」「九」「八」の列は失われているが、残りの「コップ」の「五」「六」「七」と「コップ」の「四」「三」「二」の二列の版木は底箱の横面として使われて、残されている。

ここでまず想定されるのは、この職人が紋標ごとに別の版木を使ったのではないかという事態である。実際、「コップ」の版木を見ると、縦列が「四」「三」「二」の列、「五」「六」「七」の列、「ソウタ」「ウマ」「キリ」の列、「ドラゴン」「九」「八」の列という整然とした組み合わせで彫られている。上に見た紋標「イス」の場合は、縦列「二」「三」四」は整然と並んでいるが、他の九枚の列並びは乱雑である。だが、カードの縁の斜線部分の彫り方を見ると、元々、並べて彫るカードとカードの間を繋がった斜線の密集に彫り、その後にカードとカードの中間を細く彫り取って、二枚別々のカードの縁にしてある。二枚のカードの斜線は、もともと一本の斜線であったことが分かる。これによってカードは最初から何枚かが一列の縦長の版木に彫られており、後に硯箱に仕立てる際に個別のカードの版木を寄せ集めたものではなく、木板の版木を組み合わせたことが示される。紋標「イス」のカードの乱雑な配置はそもそもの版木での配置である。

ここで検討しておかなければならないもう一つの可能性は、斜線の連続性から、紋標「コップ」の「ソウタ」「ウマ」「キリの列が紋標「イス」の右隣に彫られたことは分かるとしても、一列になって底箱の横面に使われた残りの紋標「コップ」の版木については、必ずしも一枚の板で彫られているとは断定できないのではないかということである。ここで判断のポイントは、「二」のカードの下部と「七」のカードの下部に、彫られていない版木ののりしろが共通して残されていて、この二列が元々並んで彫られていたことを説明している点である。結局、「コップ」のカードは、一枚の版木で、紋標「イス」のカードの横に、同じ三段構成で四列に彫られていることになる。したがって、この版木は、三段×八列、合計二十四枚のカードを彫りこんだものであったと推定されるのである。

次にこの職人は、もう一枚の木版を取り出して、紋標「ハウ (棍棒)」と「オウル (金貨)」のカードを彫った。まず、ここで後世のカルタ職人の様に、紋標「イス」や「コップ」のカードとともに一枚の版木に四十八枚のカードを彫りこむのではなくて、二枚の版木に分けていることを説明しよう。私の判断の基本的な要素は、各々のカードの縁返し模様の斜線である。真っ先に目につくのは、紋標「ハウ」と「コップ」のカードの斜線は右肩上り、「イス」と「オウル」のカードの斜線は左肩上りという決定的な相違である。同じ一組のカードを彫る際になぜこのような相違をさせたのか、そこにどのような職人の関心あるいは無関心を想定できるのかは私の理解を超えている。だが、一枚の木版で一人の職人が連続して四十八枚のカードの版を彫ったのであればこのような相違が生じることはまずあり得ないので、二枚の木版に分けて彫られたという推測が成り立つのである。二枚を二人の職人で分け合って彫ったのではないかという推測も生じる。

次に注目するのは、底箱横面の右辺にある紋標「ハウ」の版木である。これと対称的な 左辺に紋標「オウル」の版木では、「二」「三」「六」「七」の四枚が縦に並んでいる。この並び方には違和感があるが、もしこれが一枚の版木に連続して彫られたものであると、二枚目の版木は四段×六列で合計二十四枚のカードを彫りこんだという可能性が見えてくる。そこで注目するのが右辺の「ハウ」の版木である。これはよく見ると「ハウ」の「二」「三」「ドラゴン」「五」は、「二」「三」と「ドラゴン」「五」の向きが上下逆さで、両者を底面で張り合わせたものであることが分かる。こういう観点で左辺の紋標「オウル」のカードを見ると、「二」「三」と「六」「七」は、上下はよく分からないが、二枚の版木の張り合わせであるように見える。

この判断を支持するのが、この版木では、全体的に、カードを「二」「三」「四」のかたまり、「五」「六」「七」のかたまり、「八」「九」「ドラゴン」のかたまり、「ソウタ」「ウマ」「キリ」のかたまりで彫っているように見えるという事情である。それを硯箱に仕立てる際には、「二」「三」と「四」を切り哀し、「五」と「六」「七」を切り離し、「八」「九」と「ドラゴン」を切り離している。左辺の場合は、「四」を切り離した「二」「三」の版木と「五」を切り離した「六」「七」の版木の合体であった。一方、右辺の場合は、「二」と「三」の版木に、「ウマ」「キリ」から切り離された「ソウタ」の版木を貼り合せ、さらに「六」と「七」から切り離された「五」の版木を貼り合わせている。

残るのは、上蓋の最上段にある五枚のカードである。私は、紋標「ハウ」と「オウル」の場合は、三枚のカードは、上から「二」「三」「四」の縦列、「七」「六」「五」の縦列、「八」「九」「ドラゴン」の縦列、「ソウタ」「ウマ」「キリ」の縦列で彫られており、硯箱に仕立てる際に、縦列の最下段を切り離したと理解している。こうすることで、「四」「五」「ドラゴン」「キリ」が単体になる。上蓋の最上段に並んでいるのは、左から「オウルの五」「オウルのキリ」「オウルのドラゴン」「ハウの四」「ハウのドラゴン」であり、こういう単体のカード版木の寄せ集めであると判断される。

③ 「キリ」の札の盾、紋標「イス」の剣の先、「オウルの二」

この「カルタ版木硯箱」の版木の図像について、山口吉郎兵衛は「彫刻も大分粗末で製作年代の降るものらしい」[4]と書いている。山口が、昔の所有者が書かせた外箱の記載を無視してなぜ日本製と判断したのか、その理由が分からないが、それはさておくとして、また、彫りが粗末かどうかは判断の分かれるところとしても、製作年代が降るというのは誤りであり、粗略ではあるがヨーロッパのカルタの図像を忠実に踏襲している古い時期の特徴を備えている。何点か具体的に検討しておこう。

日本製のカルタの図像は神戸市立博物館にある「天正カルタ版木重箱」[5](以後、「カルタ版木重箱」)が基準史料とされてきたが、これと「カルタ版木硯箱」の図像を比較すると、「ハウの二」や「コップの六」には同じような「南蛮カルタ」の痕跡が見られるものの、「カルタ版木硯箱」では「オウルの六」のカードにヨーロッパのカルタの特徴が残されているのに「カルタ版木重箱」ではすでに消滅している。ヨーロッパのカルタの「オウルの六」のカードでは、六個の金貨紋の中央に斜めに文字が入っていて、たとえばフロレス・カードではCON LICENCIA DE LA M REAL(国王陛下の勅許により)とされている。「カルタ版木硯箱」では文字が単なる装飾の模様に化けているが、しかしここには何かを描こうという意思があり、それを表す模様がある。他方で、他の日本のカルタでは、早い時期にこの部分の模様が消滅してその後復活することはなかった。「カルタ版木重箱」でも消滅している。そうするとこのデザインの痕跡が残存している「カルタ版木硯箱」の版木の古さ、あるいはヨーロッパのカルタ図像との近縁性が分る。また、「コップの六」では、フロレス・カードではPOR FRANCISCO FLORES(フランシスコ・フロレスによる)と制作者の名前が入っている。「カルタ版木硯箱」ではここでも文字は装飾模様に変化しているが何かが残っている。さらに、「コップの四」のカードには、フロレス・カードでは十字の形に装飾の緑や花が描かれている。「カルタ版木硯箱」では横に一列中途半端な装飾があるだけである。南蛮の文字や十字架型の模様を嫌っているのだが完全に消滅はさせない。結局のところ、「カルタ版木硯箱」は、日本でいえば文禄慶長年間(1592~1615)ないし江戸時代初期(1603~52)、南蛮カルタの影響はまだ色濃いが同時に切支丹の禁制に配慮しなければならなかった時期のカルタの版木なのかと考えられる。

次に、ヨーロッパのカードでは、四紋標の「キリ」のカードにはだ円形の「楯」が描かれていて、四人の「キリ」は、各々が片手でそれを掴んで坐っている。「楯」には各々に異なる紋章が描かれているからそのカードの制作地や制作者を示す大事な意味のある図像であろう。それが日本に伝来して消えてしまった。「滴翠美術館」に残る「ハウのキリ」のカードを見ると、左手を妙に張っていることに気付く。これは、元来は左側にあった「楯」にもたれかかるように置かれた手の図像であったのが、「楯」が消えてしまい、空中で突っ張る形になってしまったものである。

この「楯」の消滅という現象は、「カルタ版木重箱」でも起きているし、そのほかの手描きの「天正カルタ」や「うんすんカルタ」でも起きている。日本に残るカルタの図像では、「ソウタ」の図像に「楯」」が残ったものはあるが、「キリ」の図像に「楯」を描いたものはない。ところが、「カルタ版木硯箱」では、形状はだいぶ変形していて亀甲形のものになっているが、しかし確かに「楯」に由来する図像がある。

天正カルタの四紋標
天正カルタの四紋標
(右よりハウ、イス、 コツフ、ヲゝル)
(『歓遊桑話』)

この版木の図像で気になる点はまだいくつかある。まず、紋標「ハウ」の棒の先が銛の様に三角地になっている。日本では後に触れる「うんすんカルタ」の二系統のうち、「火焔龍」グループと呼ばれる系統のもので紋標「イス」の剣の先を三角形にしたものはあるが、「ハウ」の棒の先を三角にしたものは見たことがない。職人に何か紋標「ハウ」と「イス」を取り違える勘違いがあったのだろうか。また、紋標「オウルの二」では、これも後に詳しく触れるが、日本では伝来したカードを小型化して「天正カルタ」を考案した際に、紋標の「オウル」を小型化するのではく周辺を切り落とすという世界のカルタ史上にない奇妙な変化をとげたが、この版木では、『オウル』を小型化して真円を維持している。これも手描きの「うんすんカルタ」に顕著なことである。

これはいったいどういうことなのであろうか。この版木が日本人の制作したものであるとすると、その者は、どこで、どのようにして日本への伝来直後に消滅していた「キリ」のカードの「楯」の存在を知って復活させたのであろうか。これが日本製だとすると説明が困難である。このことはこの版木が初期の日本製のカルタよりも以前のものではないかという推測を産み、日本製ではないかもしれないという疑惑にもさらなる道を開くのである。


[1] Trevor Denning, “Spanish Playing-Cards” IPCS, 1980, p.24.

[2] 濱口博章、山口格太郎『日本のかるた』カラーブックス二八二、保育社、昭和四十八年、九六頁。

[3] 展示会目録『王朝のあそび いにしえの雅びなせかい』、朝日新聞社、昭和六十三年、三六頁。

[4] 山口吉郎兵衛『うんすんかるた』、リーチ(私家版)、昭和三十六年、八頁。

[5] 山口吉郎兵衛『うんすんかるた』、リーチ(私家版)、昭和三十六年、九頁。

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