メニュー

四 ブロンホフ(Jan Cock Blomhoff)・その二

ブロンホフと家族
ブロンホフと家族、
川原慶賀、文政十四年

ブロンホフは、文化十四年(1817)にオランダ商館長に昇格して再度来日して、文政七年(1824)に次期の館長と交代して帰国している。この在任期間の七年間に多くの日本人と親密な交際を進め、とくに蘭学者たちとの親交を深めた。また、この期間中には江戸に出向いて十一代将軍徳川家斉に謁見する機会があり、旅行の途中や江戸での滞在中に見聞を広め、長崎では会えなかった多くの人々との交際を進めることができた。そして、文政七年の帰国時には日本の文物を大量に母国に持ち帰り、展覧会を開催したり物品を頒布したりして、日本文化の紹介に努めた。こうした物品史料の多くは、その目録と共にオランダの博物館に寄付されて、今ではライデン市内にあるライデン国立民族学博物館に大事に収蔵されている。

 

この文物の中に「めくりカルタ」やそのほかのカルタが含まれていることを最初に発見して現地で調査したのは山口格太郎である。その報告を知って私も同館を訪問して収蔵庫にも入って調査して、この「ブロンホフのめくり」一組を実見するとともに、新たにシーボルト・コレクションに賭博系のカルタ二組を発見するとともに、両名が持ち帰った未整理状態の各種のカルタ数組を知ることができた。また、「ブロンホフのめくり」については、その詳細な目録を判読して翻訳することができた。なお、山口は、「滞日当時の日記の中にも克明に恐らく遊び方なり札の説明を書き留めている」[1]と書いているが、この日記については博物館も知らず、見ることができなかった。あるいはどこかに混乱があって、目録と日記が混同されたのであろうか。

 

「ブロンホフのめくり」もシーボルトのカルタも、現地の乾燥した気候の中で博物館の収蔵庫に収められていて、山口格太郎が発見するまではその存在を知る人もなかったので各種の利用に伴う痛みもなく、いわば未使用のコンデションにあったのであり、実際に手にすると、タイムスリップして文政年間(1818~30)に実際にこれを用いた遊技に参加しているようにように真新しい触感が残る。このブロンホフ・コレクションは、日本のかるた史研究者にとって、現地に赴いて実際に調査研究することが必須の仕事であるように貴重なものである。

 

ブロンホフが持ち帰ったカルタは、めくりカルタ一組四十八枚に加えて「Oni Duivel」(鬼、デビル)と記された「鬼札」が一枚あり、合計四十九枚である。オウル紋の四のカードの中段に「五条橋通たいこ町ほていや理兵衛」とあり、コップの六のカードの中段にも「ほていや理兵衛」とあるので、京都六條坊門(五條橋通)のカルタの名店、ほてい屋の作であることが分かる。また、金銀彩の加え方を見るとオウル紋の五、六に分厚く、江戸のめくりカルタではなく、関西、西日本で盛んだった「合せカルタ」「天正カルタ」と呼ばれるタイプのもので、近代の地方札でいえば、大阪中心に近畿地方で用いられていた「赤八」に近い。「鬼札」も赤い鬼の面と「金札」という表示が描かれていて、これも「赤八」の「鬼札」に近い。ブロンホフがこれをどこで入手したのかは記録がないが、将軍の謁見で江戸に出かけた際のものではなく、西日本と推定される。一番可能性が高いのは長崎市内である。

ブロンホフコレクション目録
ブロンホフコレクション目録

 

このカルタを説明するブロンホフ・コレクション目録にはオランダ語で次の記載がある。

 

 

第三一編 趣味及び娯楽 品番五二七のA

 


 

一組の普通のカルタ。このカルタは四八枚のカードで構成され、それは三種類の異なった紋標(スーツ)と一かたまりの(タロット・カードと同じ)点数にならない紋標のカード、つまり、アカ、タイコ、アオ及びカッパあるいは点数にならない紋標に分かたれる。つまり、四枚の二(ニ)、つまりアカのニ、タイコのニ、アオのニ、カッパのニ(点数にならない)、四枚の三(サン)、つまりアカのサン、アオのサン、二枚のカッパのサン(点数にならない)、四枚の四(シ)、つまりアカのシ、アオのシ、二枚のカッパのシ(点数にならない)、四枚の五(ゴ)、つまりアカのゴ、アオのゴ、二枚のカッパのゴ(点数にならない)、四枚の六(ロク)、以下同じ、四枚の七(シチ)、以下同じ、四枚の八(ハチ)、以下同じ、四枚の九(ク)、以下同じ、四枚の一〇(ズウ)またはキング、四枚の図像(キリ)またはクイーン、四枚の図像(ウマ)またはクナーベ、四枚の図像(ムシ)またはエースである。

 


 

いまや日本では、カルタ遊びは、厳密に言えば(賢明な根拠から)禁止されている。というのは、すべてのインド人と同じように、この国の人々は賭博に対して強い嗜好と情熱を持っているからである。それにもかかわらず、この種のものが出現している。賭博の犠牲者が多数生じ、さらに、全財産を賭けてしまったり、警察の急襲で捕らえられ、一度目には鉄の棒で打ちすえられ、二度目には打ちすえられる数が倍増された上に監獄に入れられ、三度目には死刑に処せられてしまったりする者がいるにもかかわらず、かるたは製造されている。

 


 

詳細の説明については、あまりにも分量が多くなりすぎるので、別に提供する。

 

 

 

若干の説明をしておこう。ブロンホフは、この時期のめくりカルタを「アカ」「タイコ」「アオ」の三紋標に属するものと、もう一つの「カッパ」と呼ばれる、点数の計算に入れない、つまり得点にならない紋標のカードで構成されるとしている。これは多少の誤解があり、「タイコ」と呼ばれるのは「タイコの二」つまり金貨紋(オウル)の二が一枚だけであって別異の独立した紋標ではない。そして、「カッパ」に属するとされるカードは巾着紋(コップ)と金貨紋(オウル)に分かたれる。「カッパ」は「河童」である。「コップ」紋のカードないし「オウル」紋のカードを「河童」と呼んだ例はあるが、これほど明確にカス札の全体を「カッパ」と呼んだ例は他には知られていない。以上要するに、ブロンホフは、日本では「アオ」「アカ」「コップ」「オウル」の四紋標とされるところを「アカ」「タイコ」「アオ」「カッパ」だと誤解したのである。

 

また、ブロンホフは図像のカードを「四枚の一〇(ズウ)またはキング、四枚の図像(キリ)またはクイーン、四枚の図像(ウマ)またはクナーベ」と説明しているが、日本では「一〇」とされるカードはない。「一〇」という数札があるのはフランス式の、それ故にオランダ式のカルタの特徴であり、イベリア半島のカルタにはない。ブロンホフがここで説明しているのは数札ではなく、「ソウタ」とか「シャカ」とか呼ばれるカードである。これはもともとポルトガルのカルタでは女従者(ソウタ)であり、日本に入ってから坊主の図像と誤解され、「釈迦十」と呼ばれるようになった。したがって、図像の元は「キング」ではない。図像としては「クイーン」ではない。カードの順列での位置からすれば、絵札の中での最下位なので、フランス式のカードでいえば「クナーベ」(「ジャック」の別称)に近い。「キリ」と呼ばれるカードは「クイーン」ではなくいわば「キング」である。「ウマ」と呼ばれるカードは「クナーベ」ではなく位置的には「クイーン」に相当するが図像は乗馬した騎士である。この辺はブロンホフの混乱なのか、ブロンホフにカルタについて教示した日本人の混乱なのかは分らないが、いずれにせよ混乱している。「エース」にあたるのは、「ピン」とか「アザピン」と呼ばれていたカードのことであるが、これを「虫」と呼んだ例は他にもある。

 

これ以後の記述では、賭博犯の刑罰の説明に及んでいる。初犯は敲き(罰杖五十回)、再犯は重敲き(罰杖百回)というのは理解できるが、三犯が死刑というのは過酷である。どこかの藩にこうした立法例があったのかもしれないが、それは極めて例外的なもので、享保年間(1716~36)以降の寛刑の時期には博奕だけで死罪というのは考えにくいし、ブロンホフが最も詳しく知っていた長崎奉行所管内の処罰の記録[1]には博奕犯で死罪にされた例はない。

 

なお、 以上のコレクション目録の説明は、カルタ遊技に用いるカードという用具の解説に終始しており、社会的な背景についてはごく簡単に触れているものの、カルタ遊技の遊技法については省略されている。「あまりにも分量が多くなりすぎるので」と書いているのであるから、ブロンホフが興味をもって観察して詳細に記録したのであろう。ここで告知された文章については、平成二十八年(2016)刊の『ライデン国立民族学博物館蔵ブロムホフ蒐集目録』[2]に依って、「オランダ北ホラント州文書館所蔵476-938番」がそれであることが明らかになった。

 

この十九世紀前期のオランダ語文章の私による翻訳[3]は次のものである。なお、翻訳文の理解に資するために、若干部分を( )で補った。札の中での数の表示と得点の異同を明確にするために、得点については(点)と補った。

札遊びのやり方
日本の札は一揃いが48枚からなっており、「めくり札」と呼ばれ、以下のように分類される。

 

4枚の2もしくは「ニ」の札は:  

「赤」の2

「太鼓」の2
「青」の2

「河童」の2 点数にならない紋標

4枚の3もしくは「サン」の札は:   

「赤」の3

「青」の3
2枚の「河童」の3 点数にならない紋標

4枚の4もしくは「シ」の札は:  

「赤」の4
「青」の4
2枚の「河童」の4  点数にならない紋標

4枚の5もしくは「ゴ」の札は:  

「赤」の5
「青」の5
2枚の「河童」の5 点数にならない紋標

4枚の6もしくは「ロク」        
4枚の7もしくは「シチ」    
4枚の8もしくは「ハチ」       
4枚の9もしくは「ク」          
4枚の10もしくは「ジュウ」
4枚の絵札もしくは「キリ」
4枚の絵札もしくは「ウマ」
4枚の絵札もしくは「ムシ」

上に同じ

上に同じ

上に同じ

上に同じ

上に同じ

上に同じ

上に同じ

上に同じ

数え方もしくは「役」と呼ばれるもの。

「青」の4, 5, 6は2(点)多く意味する。
「赤」の4, 5, 6は上に同じ。
「赤」の7, 8, 9は上に同じ。
「赤」の1, 2, 3は上に同じ。
「赤」札の「十」、「キリ」、「馬」は3(点)と呼ばれ3(点)もしくは「青」である。
「青上札」の「十」、「キリ」、「馬」は3(点)と呼ばれ3(点)もしくは「赤」である。
「青」の7, 8, 9は2(点)である。
「青」の1, 2, 3は上と同じく2(点)である。

「虫」はエースと同じ点数である。
「馬」はジャックと同じ点数である。強さに違いはない
「キリ」はクイーンと同じ点数である。強さに違いはない
「十」はキングと同じ点数である。強さに違いはない

2人で遊ぶ場合 8枚の札をテーブルに置く。
3人で遊ぶ場合 6枚の札をテーブルに置く。
2人で遊ぶ場合  10枚の札を手に持つ。
3人で遊ぶ場合  7枚の札を手に持つ。

8, 7, 3, 卓上にある8,7, 3またはその他の「赤」もしくは「青」などの札に手持ちの札から同じ一枚の札を載せ、自分の前に取り、山から一枚の札を裏返しにして、「赤」または「青」の卓上の同じ札を取りこれもまた自分の前に「取り札」として置く。これを繰り返して全ての札が終わるまで続ける。自分の前にある「取り札」を良く見て、先に述べた「役」がその札から成立するならば、加点することができる。
従って札を取る際には加点となる「役」またはそれに類するものが成立するか、また、別に並べて置かれる、点数にならない「河童」の札による失点が成立するかに注意しなくてはならない。

遊びでは(「河童」の紋標に属する札の中では)「キリ」、「馬」、「十」、「虫」のみを1(点)として数える。「赤」の2から9 までもまた1(点)として数える。「青」の2及び「馬」、「キリ」は3(点)として数える。「十」、「虫」、「青」の5、「太鼓」の2は5(点)として数える。「青」の7, 8, 9はそれぞれ2 (点)として数える。「青」の4は4 (点)として数える。「青」の6は6 (点)として数える。

「青」または「赤」の「役」が成立した場合には、事前に取り決めた額を支払う。
「赤」の「虫」またはエース、「赤」の1, 2, 3は、一番高く数える。

「青」の1または「虫」,2, 3は上と同じである。    

さらに「鬼」または悪魔と名づけられた札は全ての札に勝るものを得る。

 

このブロンホフ文書では、「役」の紹介の際に、そのカードの構成は説明しているがその「役」の名称を書いていない。当時の「めくりカルタ」の説明の際にこれを除外したとは思えないので、ブロンホフの側に何らかの支障があったのであろう。ここで参考のためにそれを列記すると以下のようになる。

 

「青」の4,5,6・日本名は「青蔵」。

「赤」の4,5,6・日本名は不詳(あるいは「赤花」か)。

「赤」の7,8,9・日本名は「赤蔵」。

「赤」の1,2,3・日本名は不詳(あるいは「赤の下モ三」か)。

「赤」札の「十」、「キリ」、「馬」・日本名は不詳(あるいは「赤の上ミ三」か)。

「青上札」の「十」、「キリ」、「馬」・日本名は「上ミ三」。

「青」の7,8,9・日本名は「仲蔵」。

「青」の1,2,3・日本名は「下モ三」。

 

「めくりカルタ」では伝統的に「青」が最上位の紋標の札で、「赤」はそれに次ぐが多少軽んじられる紋標の札とされていた。ブロンホフの場合は、文書の全体を通じて、こうした札の序列への理解が足りないように見える。ただ、「赤」を「青」と同価値の紋標のように扱うのは、ブロンホフの誤解ではなくて、「めくりカルタ」のルールがこのように変化した地方ないし集団があったのかもしれないので、これ以上の判断を控える。

 

なお、ブロンホフの記述では、「めくりカルタ」の遊技で最高の「役」である団十郎(「青」の1、「青」の2、「青」の「十」)、海老蔵(「青」の1、「赤」の2、「青」の「十」)について言及されていないのが不思議である。これは、花札の遊技法の説明で「四光」や「猪鹿蝶」の「役」が抜けているようなものである。逆に、「赤」の1,2,3の「役」、「赤」の4,5,6の「役」、「赤」札の「十」、「キリ」、「馬」の「役」があるが、いずれも日本の文献には該当する「役」がなく、したがって名称は不詳である。天明年間(1781~89)の『百文二朱寓骨牌』や寛政年間(1789~1801)の『博奕仕方風聞書』は「団十郎」「海老蔵」「下モ三」「上ミ三」「仲蔵」「赤蔵」を六大役としており、ブロンホフの滞在した文化文政期(1804~30)までの間に「役」の構成が変化したのであろうか。

 

「青蔵」は理解しやすい。よく分からない「赤花」という役はここにあるのだろうか。私が仮に「赤の下モ三」や「赤の上ミ三」と名付けた「役」は理解しにくい。文化文政年間(1804~30)の新しい「役」であろうか、それとも単なるブロンホフの誤解であろうか。また、従前は「団十郎」「海老蔵」が最高点の「役」であったところ、ブロンホフでは「下モ三」と「赤の下モ三」が最高点であるとしている点も気になる。

 

このほかにも若干の気になる記述はあるが、大きな問題はない。いずれにせよ、この文章は期待していた以上に素晴らしい、江戸期のめくりカルタ遊技の説明文であり、カルタ史研究の上では最重要な第一級の史料である。これの所在の発見と紹介に導いた『ライデン国立民族学博物館蔵ブロムホフ蒐集目録』刊行の関係者の功績は、かつての『博奕仕方風聞書』、別名『鞠吏記則』の発掘と翻刻に匹敵する大きなものである。この発見を契機に、江戸時代の賭博系カルタの歴史がさらに明確に解明されることを期待する。

 

 


[1] 山口格太郎「ブロンホフの『めくり』」『京都』三〇八号、白川書院、昭和五十二年、六一頁。

[2] 江橋崇「長崎奉行所犯科帳にみるカルタ博奕の実態」『遊戯史研究』第二十六号、遊戯史学会、平成二十六年、二頁。

[3] 松井洋子、マティ・フォラー編『ライデン国立民族学博物館蔵ブロムホフ蒐集目録』、臨川書店、平成二十八年、二〇七頁。

[4] 江橋崇「『めくりカルタ』遊技に関するブロンホフ文書の発見」『遊戯史研究』第二十九号、遊戯史学会、平成二十九年、七三頁。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です