日本骨牌製造の「大隊長」印
日本骨牌製造の「大隊長」印
(左:明治、中:大正「錫箔包」、右:昭和)

明治二十年代(1887~96)、急激な花札の需要の拡大に追われて既存の花札の製作業者が多忙に過ごすとともに、何軒もの新規参入業者も出てきたが、市場で商品の品質と価格の競争が起こり、いつしか、市場での評価の高いブランド商品ができてきた。東京銀座の「上方屋」が扱うものは品質が良かったが、各々のメーカーは、手作りであるのでどうしても出てくる不良品もあって、完全な最上級品から多少の傷を我慢してもらう普及品まで、高価なものから低廉なものまで各種を販売した。そして、各カルタ屋の最上級品の中でも、「玉田兄弟商會」から「日本骨牌製造合資會社」に組織変更したカルタ屋が販売する「大隊長」印の花札が市場で最も高く評価されて人気となった。そして、こうした人気ブランド品にはすぐにイミテーション、模造品が群小のカルタ屋によって作られるので、これを防止する必要があった。そこで、大手のカルタ屋は明治二十年代(1887~96)から、登録商標制度を活用して偽物の出現を防止しようとした。

上方屋の商標登録
上方屋の商標登録(明治二十二年)

当時の花札の登録商標は『日本登録商標大全』の第六十三類(後に第六十五類)に見ることができる。それによると、この面でもリーダーシップを発揮したのは東京銀座の「上方屋」であり、率先して明治二十二年(1889)に、東京市中央区銀座に居住する前田喜兵衛の名前で花札二組を収納するカルタ箱の上部に貼るラベルのデザインが登録されている。これ以降の事例は次のようであるが、ここに名前を連ねているのが当時の一流のカルタ屋ということになるのであろう。こういう店にとっては、国が正式に花札にかかわって何かを公認してくれるというのは初めての経験であり、商標の登録を認めてくれたということは、それが社会的に有用な品物であり、したがって登録業者を保護して適正な商慣習を維持すると大日本帝国が認めたものと感じられたようである。これは、古く享保年間に江戸の小間物問屋が扱い商品に「よみカルタ」を入れて申請して幕府に認められた時以来の快挙ということになる。

明治二十三年、新潟市本町通八番町・川崎又吉(角上印、「やままた三条屋」)。

明治二十四年、京都市下京区・大石サト(「大石天狗堂」)。

明治二十六年、京都市下京区・田中平兵衛(「田中玉水堂」)。

明治二十七年、大阪市東区・土田鶴松(「土田天狗屋」)。

大阪市東区・津田弥兵衛。

京都市下京区・中尾清助・(「中尾清花堂」)。

京都市下京区・臼井岩次郎(「臼井日月堂」)。

明治二十九年、京都市下京区・玉田安之助(「玉田兄弟商会」)。

明治三十年、 東京市本郷区・小出今朝蔵(「小出遊花堂」)。

明治三十三年、大阪市東区・四井善兵衛(「四井商店」)。

大阪市東区・為井辰之助。

京都市下京区・赤田半次郎(「赤田猩々屋」)。

京都市下京区・山内房次郎(「山内房次郎商店」)。

明治三十四年、京都市下京区・山城與三郎(「山城屋」)。

明治三十八年、大阪市東区・土田治郎(「土田天狗屋」)。

明治三十九年、大阪市東区・松井和三郎(「松井天狗堂」)。

大阪市東区・四井秀三郎(「四井商店」)。

明治四十年、 岩手県花巻川口町・漆澤亀太郎。(「ヤマ二」印)

東京市日本橋区・西村伊之助(「盛楽堂・西村商店」)。

明治四十五年、京都市下京区・山内房次郎(「山内任天堂」)。

この表を見ると、なおこの他に何軒かは一流のカルタ屋が未登録であるが、それでも当時のすう勢は理解できる。登録の最初のピークは明治二十七年(1894)であり、第二のピークは明治三十三年(1900)である。商標登録によって他のカルタ屋との差別化を図り、制度化への要求を乗り切ろうとするカルタ屋の考えが見えるようである。

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