花札の流行が盛んなさなかに、カルタ業界にとってはゆゆしい事態が生じた。骨牌税の導入である。骨牌税法は明治三十五年(1902)二月に帝国議会に提出され、同年四月に成立して公布された。施行日は七月一日であった。

片山貞次郎「骨牌ニ重税ヲ課スル事ニツイテ」

骨牌に対する課税を最初に主張したのは東京帝国大学卒の大蔵官僚、片山貞次郎であった。片山は明治四年(1871)に新潟県で生まれ、父親の仕事の関係で上京し、東京帝国大學法學部を卒業後に大蔵省に勤務し、後に日本銀行理事に転出した。片山が明治三十二年(1899)に結婚した相手が外交官の娘吉田広子である。広子は佐々木信綱門下の歌人であり、片山広子の名前で創作活動を行い、また松村みね子のペンネームで翻訳家としても活躍した。片山貞次郎はまだ結婚前、二十六歳の若さであったが、東京帝国大學法學部の学部紀要『國家學會雑誌』明治三十年(1897)三月号に「骨牌ニ重税ヲ課スルコトニツキテ」を投稿した。この論文の中で片山は、骨牌には、酒類や煙草と同様の税金を課するべきであり、これにより、一方で骨牌の高額化を招いて、博徒等はそれでも購入するであろうが一般市民、とくに女子どもは買え控えに走って需要が減少して社会秩序の静穏化に寄与するとともに、年間数十万円の税収が期待できて国家財政に寄与すると説いている。

片山はこの趣旨を政府内でも建議したのであろうか、明治三十五年(1902)に政府は骨牌税法案を議会に提出した。しかし、そこに述べられている立法の趣旨は片山の論文とは異なり、もっぱら骨牌は奢侈品であるので国税を得るために課税すると主張するのみであった。政府の見積もりでは、年間で三十万円の税収が見こされている。ちなみに、当時の国の年間予算は二億七千万円程度であり、骨牌税に対する期待はその一千分の一程度の増収であることが分る。また、片山が官僚として大蔵省内部で法案の検討、作成にどのようにかかわったのかは記録上は明らかでない。

骨牌税法案は、明治三十五年(1902)二月に帝国議会に提出され、二月九日の衆議院本会議で議案として上程された。政府案を説明したのは大蔵省主税局長目賀田種太郎である。目賀田はここで、同法案は奢侈品に対する課税であり、三十万五千円程度の税収が期待されると説明した。これに対して数名の議員から、これは賭博用品に対する課税であり、花札が実際には一組二、三銭から五銭で販売されているところに一組二十銭という高額の課税をするのであるからこれは禁止税の如くであり、一般人の需要が激減して税収が上がらないが、他方で博徒らはこれを容易に買い入れて賭場で使用するのであって、これを通じて賭博や賭博用品を国が公に認めることになるのではないかという疑問や、課税に伴って起きるであろう製作の不振で零細なカルタ屋、死活に余裕のない職人などが大きな打撃を受けるのではないかという疑問が提示された。目賀田はそれに正面から答えずに、ひたすらに税収の向上を企図する奢侈品への課税であると強調した[1]。同法案は、特設された骨牌税法案特別委員会に付託され、同委員会は、二月七日、十四日、二十六日、二十八日と開催されて審議を進めて、委員会としての修正案がまとまった[2]が、三月四日の本会議で委員長報告をした後に本会議は委員会修正案を否決して政府原案を第一読会として可決し、直ちにその場で第二読会、第三読会の手続きに移行した[3]。この日の質疑では、島田三郎の反対論[4]と田口卯吉の賛成論[5]が目立った。衆議院は同日に議決を終えて議案を貴族院に送付し、これを受けた貴族院は、三月五日の本会議で審議を始め、第一読会を経て特別委員会に付託した[6]。続いて三月九日、議会の会期末、最終日に特別委員会委員長に報告を求め、それが済むと政府は直ちに議院法二十八条に基づき緊急議決を求め、多少の異論を押し切って同日の本会議で議決して成立させた[7]

こうして成立した骨牌税法の主要な部分は以下のとおりである。

骨牌税法(明治三十五年四月五日・法律第四十四号)抄

第一條 骨牌ノ製造又ハ販賣ヲ爲サムトスル者ハ政府ノ免許ヲ受クヘシ

    前項ノ免許ハ骨牌ノ製造ヲ爲サムトスル者ニ在リテハ製造所一箇所毎ニ骨牌ノ販賣ヲ爲サムトスル者ニシテ販賣所ヲ有スル者ニ在リテハ販賣所一箇所毎ニ之ヲ受クヘシ

    骨牌ノ製造又ハ販賣ヲ廃止セムトスルトキハ免許ノ取消ヲ求ムヘシ

(中略)

第三條 骨牌製造ノ免許ヲ受ケタル者ハ毎年製造所一箇所毎ニ免許料六十圓ヲ納ムヘシ

    免許料納付ノ期限及方法ハ命令ノ定ムル所ニ依ル

第四條 骨牌ニハ一組毎ニ二十錢ノ税ヲ課ス

第五條 骨牌税ハ骨牌ノ包嚢ニ印紙ヲ貼用シテ之ヲ納ムへシ

(中略)

第八條 骨牌ノ製造又ハ販賣ヲ爲ス者ハ骨牌ノ出入ニ關シ詳細明確ニ其ノ事實ヲ帳簿ニ記載スヘシ

(中略)

第十一條 収税官吏ハ骨牌ノ製造所、販賣所又ハ販賣者ニ就キ骨牌ノ製造又ハ販賣上必要ナル検査ヲ爲スコトヲ得

第十二條 外国ニ輸出スル骨牌及骨牌ノ製造又ハ販賣ヲ爲ス者ノ見本ニ供スル骨牌ニ付テハ命令ノ定ムル所ニ依リ骨牌税ヲ免除ス

     前項ノ骨牌ニ付テハ第六條第九條第十條第十五條及第十六條ヲ適用セス

(中略)

第二十一條 本法ハ伊呂波加留多、歌加留多及政府ノ認許ヲ得タル骨牌ニ之ヲ適用セス

(中略)

附則

第二十二條 本法ハ明治三十五年七月一日ヨリ之ヲ施行ス

(中略)

第二十六條 本法ヲ臺灣ニ施行スル迄又ハ臺灣ニ於テ本法ト同一若ハ之ヨリ重キ課税ヲ爲ス迄ハ臺灣ヨリ本法施行地ニ骨牌ヲ移入スルコトヲ得ス

     前項ニ違反シタル者ハ三百圓以上千圓以下ノ罰金ニ処シ其ノ骨牌ハ之ヲ没収ス

こうした条文が示すように、カルタの製作業者は法第三条と第四条で高額の登録料と骨牌税を課せられて、第八条で関連帳簿の詳細で明確な整備を命じられた。そして、この帳簿整備の実施状況は第十一条で厳しく検査された。税務当局の立ち入り検査はごく当たり前で、その際に帳簿外の骨牌の残欠や登録漏れの物が一片でも見つかると厳しく罰金を科せられた。また、印刷後で未裁断の表紙(おもてがみ)が残っていても法律違反とされた。これは、それまでのおよそ前近代的な仕事場で仕事をしてきたカルタ製作業者にとっては耐えることのできない強圧であり、中小、零細のカルタ屋、地方にあったローカルなカルタ屋は続々と廃業した。他方で、これをしのぎ切れた京都、大阪などの大手のカルタ屋は花札市場で優位に立つことができたのであって、むしろこの市場の寡占状況を歓迎し、経営を安定させ、京都地域の伝統産業という名誉あるポジションを持つようになった。骨牌税は、花札の需要を調整する以前に花札製作の業界を淘汰してしまったのである。

以上が骨牌税創設の経緯であるが、ひとつ奇妙な業界神話を否定しなければならない。かつて花札業界では、骨牌税は日露戦争の軍費を捻出するために創設されたという理解があった。この業界神話を不用意に信じると、たとえば「日露戦争の直前に、伊藤博文がアメリカを視察中、トランプに証紙を貼り、それにより、政府が税収を得ているのを知り、帰国後施行したものである。険悪化する対外情勢の中で、戦費調達のために、税収増加の方法を求めていた当時の政府としては、渡りに舟だったに違いない」[8]という説明になる。だが、骨牌税の提案にかかわるいかなる資料にも、戦争準備や戦費調達の話は出てこないし、明治三十五年(1902)の前半期には、日本はまだ日露戦争の開戦決意を持っていない。また、日本政府の内部では、遅くも明治三十年の片山論文の時期にはすでにカルタ、トランプへの課税は知られていたのであって、もっと遅い時期の伊藤のアメリカ視察の成果とするのはいささか強引である。それに何よりも、伊藤のアメリカ旅行は明治三十四年(1901)九月十八日に横浜を出てシアトルに向かい、アメリカを経てヨーロッパに向かい、明治三十五年(1902)二月二十五日に長崎に上陸して帰国したものであり、骨牌税法案はすでに同月中に帝国議会に提案され、明治三十五年(1902)二月九日に衆議院本会議に上程されて議論されているのであるから、このとき伊藤はまだ帰国の航海で船の中であって、とうてい法案の検討、作成に間に合うはずはない。業界神話は虚偽である。


[1] 『帝国議会衆議院議事速記録18 第十六回議会 明治三十四年』東京大学出版会、昭和五十五年、二〇二頁。

[2] 『帝国議会衆議院委員会議録21 第十六回議会、明治三十四年』東京大学出版会、昭和六十二年、三五七頁。

[3]『帝国議会衆議院議事速記録18 第十六回議会 明治三十四年』東京大学出版会、昭和五十五年、四九二頁。

[4] 同上、四九三頁。

[5] 同上、四九四頁。

[6] 『帝国議会貴族院議事速記録19 第十六回議会 明治三十四年』東京大学出版会、昭和五十五年、三五二頁。

[7] 同上、四六六頁。

[8] 村井省三「日本の賭博かるた」『別冊太陽いろはかるた』平凡社、昭和四九年、一六四頁。

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