カルタ屋は、同時に少量ではあるが、「八八花」の全国に及ぶ大流行よりも以前の時期に各地で使われていた、その地方の花札の遊技を支えてきた個性の強い地方札のカードの生産も続けていた。明治前期(1868~87)に製作されていた物を北から言うと、「北海花」「花巻花」「山形花(奥州花)」「越後花」「越後小花」「虫花」「阿波花」「備前花」などである。かつて江戸、東京を中心に関東地方に存在していた「関東花」は「八八花」に化身して全国標準化し、地方札としてはこの時期に完全に姿を没した。

「北海花」についてはすでに述べた。これはいくつかのカルタ屋で比較的に長い期間制作されていたものであり、明治末期(1907~12)の大阪の「松井天狗堂」の目録(最高級品で一組五十五銭、内骨牌税は二十銭)、大正九年(1920)の「赤田猩々屋」の目録(一組一円五銭)、昭和初期(1907~12)の「山内任天堂」の目録(一円七十五銭)等に掲載されている。北海花の消費地はもちろん主として北海道であるが、明治年間(1868~1912)以降の北海道には、漁業、鉱業という二大産業があり、前者の労働者がかかわる賭博色の強い花札遊技の場では京都製の花札、今日北海花と呼んでいるものが使用され、後者である炭鉱などの鉱業の現場の花札遊技の場では、岩手県花巻市製の南部花札が使われていた。南部花札は独特の図柄で一目で区別がつくが、京都製の北海花は分かりにくい。その図柄は、一言で言えば越後花系のもので、ただ、明治前期(1868~87)の時代色を反映して、二月の梅の枝ぶり、三月の桜の枝ぶりなどがすでに八八花札の図像の先駆的な形に転換しつつある。ネットオークションなどで「北海花」として販売されているものにはこうした「北海花」固有の特色は見当たらず、使用済みで汚れた「越後花」であることが多い。

花巻花札(「鶴田」製、昭和後期)
花巻花札(「鶴田」製、昭和後期)

「花巻花」についてもすでに述べたので簡単に繰り返しておくが、「花巻花」は地方花の中では歴史が古いもので、江戸後期(1789~1854)の「武蔵野」の骨摺りの表紙(おもてがみ)の上にデフォルメされた独特の彩色を手書きで施していて、このカードは花巻市周辺で少量売れただけであるが、根強い人気もあって製作が続いた。花巻市のカルタ屋は京都の「任天堂」などと手を結んで通常の「八八花」については外注方式を採っていたが、「花巻花」については京都に委託するほどの数量は必要なくて自家での制作を継続して、昭和三十年代(1955~64)まで、最終局面では「大日本観光堂」と名乗っていたが、機械で印刷した表紙(おもてがみ)を使って手作りでカードを仕立てていたようである。私が調査に入った昭和五十年代 (1975~84)にはすでに需要が消滅していて廃業していた。私は、最後のカルタ屋、「鶴田」の家族から最後の一組を分けてもらった。史料として広く公開して研究の役に立てるという約束で分けてもらったものであるので、こうして公開できて責任を果たせた気持ちである。「花巻花」は次に述べる「山形花」と似ているが、「花巻札」は北上川から三陸の海に出て江戸に通じる水運の始点の花札であり、カス札に和歌がない「武蔵野」である。一方、「山形花」は最上川から日本海に出て北陸沿岸、山陰沿岸、瀬戸内海を経て上方と通じている水運の北限であり、カス札に和歌のある古いタイプの「武蔵野」である。ネットオークションなどではこの点でも混乱が起きていて、和歌があるのに「花巻花」として販売されている。

また、花巻札の時代の判定であるが、古いものの「芒」のカス札には三日月はない。これが付いている「花巻札」は比較的に新しい。同じことは「山形花」や「越後小花」でもいえて、どの地方花でも、古い明治年間のものでは、「芒」のカス札には月の図像はない。

奥州花札(「任天堂」、昭和後期)
奥州花札(「任天堂」、昭和後期)

「山形花」は、「奥州花」とも呼ばれていて、「花巻花」に次いで古い。もともとは羽前、羽後、磐城、岩代の各地方、つまり今日の秋田県、山形県、福島県で広く使用されていたから、「奥州花」の方が呼称としては適切かもしれない。これについては明治四十年代(1907~1912)ころ「任天堂」のポスターにしか掲載されていないのでよくわからないが、元来は山形県酒田市か山形市あたりで生産されていたものを、後に「任天堂」一社限りの外注製作方式に切り替えたのであろう。「任天堂」以外にこの花札の情報は伝わっていない。ただ、昭和三十年代(1955~64)に「任天堂」が製作した機械印刷の「奥州花」のカードがあるのだから、それなりに根強い需要があったのであろう。作れば捌けたのであろうが、どういう人々が使っていたのかは分からない。各地に散在したであろう高齢の愛好者も需要の一部になったであろうが、やはりどこかにこのカードを専門に使う賭場があって、そこで大量に消費されたので機械製作することができたと考えるのが穏当である。以前に地元で手作りだった頃のカードが残っていると幕末、明治の事情が色々と分って好都合なのであるが、探したが未見である。

「越後花」は越後、越中の各地方、つまり今日の新潟県、富山県で使われていたものである。中でも、直江津市、高田市、新潟市、魚津市、富山市での需要が特に多かったようである。これは地方札の中でもっとも盛んに用いられたもので、今日でもなお、「任天堂」や「大石天狗堂」などで制作されている。もともとは、新潟県にこれを 制作していた「やままた三条屋」などのオリジナルなカルタ屋があり 、その図像が京都に流れたのだと思うが、記録もないし、まして新潟県内で制作された古いカードの実物は見たことがない。新潟県は、「越後花」を使って遊ぶ関西風の古い技法と、「八八花札」を使う関東風の新しい技法が混在している地域であるので、一般人にも、また博徒にも「越後花」の根強い需要があったのであろう。

越後小花(「任天堂」、昭和後期)
越後小花(「任天堂」、昭和後期)

「越後小花」はよく分らない。札の構成は「越後札」そっくりである。「任天堂」製の昭和後期、昭和三十年(1955)頃のものは、和歌が全く消えていて、「芒」のカス札の空の部分に赤い雲や小さな満月が付いていたり、「柳」の札に奴でも小野東風でもなく菅傘を被った豆狸が描かれていたり、「桐」のカス札の一枚に赤い短冊が付いていたりして「越後花」とは違う印象があるが、明治前期(1868~87)の「中尾清花堂」製の「越後小花」を見ると、小さなカードだが和歌がびっしりと彫られているし、「芒」の札の二個目の満月や「桐」の札の短冊は存在せず、赤い雲の配置や色々なカードへの金銀彩のかけ方などを見ると、図像的には「越後花」そっくりである。本来は「越後花」の小型のものであったのが、その後独自に発達して図像に違いが出てきたし、和歌が消えたものであろう。このかるたには当初から和歌の記載がなかったと考えるのは、北前船航路沿いに広がる和歌付き地方札の花札文化への理解が足りない。使用地については「任天堂」の情報以外にはないのであって、糸魚川流域とするその情報を信じる以外にはない。ただ、「柳」のカードの豆狸はなんといっても「越後小花」の最大の特徴であるし、とても魅力的な図柄である。これが明治前期(1868~87) に制作されたカードにもくっきりと描いてあるのはとても興味深い。もしかしたら明治前期 (1868~87) には、大型の「越後札」でも「柳に狸」の札があったのではないかと想像している。狐と並んで人間を化かしてきた狸であるから、色々な札に化けることのできる「柳」の「生き物札」の図柄としては結構似合っているのではなかろうかと思える。そして、このようにローカルな花札が昭和後期(1945~89)にまで残って「任天堂」で制作されていたことにも驚かされるのである。なお、平成年間 (1989~2019)に「大石天狗堂」から制作、販売されているが、どこにこの地方札を使う需要が残っていたのか、それとも単なるコレクター目当ての参考品なのか。前者なら大発見であるし、後者であるといかにも残念である。いずれにせよ、制作者の協力を得た調査が大事である。

「虫花」は京阪神地域のローカルな遊技法であり、それに見合って通常の花札の十二紋標から「牡丹」と「萩」の二紋標、八枚を抜いて四〇枚一組に仕立てた専用札が多くのカルタ屋で制作されている。「虫花札」はもともと独立した地方花札であって、「八八花札」とでは「梅に鶯」「紅葉に鹿」「柳に小野道風」などのカードの図像に明白な違いがあって、したがって「虫花札」は最初からそれ専用に制作するものであって、「八八花札」から「牡丹」と「萩」のカードを抜けばよいという安直なものではなかったのだが、徐々に両者の図像の違いが不明瞭になり、最近は「虫花札」に「八八花札」の図像が混入されていたり、逆に「八八花札」に「虫花札」の図像が採用されたりもしていて、両者の区別はあまり明瞭でなくなっている。「虫花」は大阪府でよく使われたので、「大阪虫」と呼ぶこともある。このカードも、一般の人と博徒の双方で使われている。

なお、作家の平林たい子は、昭和二十二年(1947)の雑誌小説「黒札」[1]で昭和前期の博徒の生きざまを活写し、その中に「虫花」を遊ぶ場面が描写されている。ここで表題とされた「黒札」は、「めくりカルタ」の地方札の一種の東北地方の「黒札」ではなくて、黒裏の「虫花」札である。主人公は、いよいよ決戦の大勝負というところで「下り藤」を引いて負けてしまう。これは賭博の雰囲気や心理をよく書き込んだなかなかの名場面で、平林としても自信作の一つであったのか、全集などによく収録されている。

阿波花札(「板東笑和堂、昭和前期)
阿波花札(「板東笑和堂、昭和前期)

「阿波花」は四国徳島県中心に使われた花札である。独特にデフォルメされたカードで魅力的である。徳島県現地のカルタ屋で制作されていたが、京都の「大石天狗堂」でも制作するようになり、作り損ねたものが倉庫に残っていて昭和後期に発見されてコレクターに珍重されたが、本家はやはり現地のカルタ屋であることを忘れてはいけない。その後、「大石天狗堂」はこのカルタを再度制作して販売するようになったが、これについてもどこにこれほど古風な花札を用いる需要があって、あるいはそうした需要が見こされて制作に踏み切ったのか、制作、販売した側には情報があってのことであろうから、調査が望まれる。

備前花札(「小野」制作、明治中期)
備前花札(「小野」制作、明治中期)

「備前花」は、業界では「越後花」から和歌を抜いたような図柄のものといわれている。もともとは岡山県倉敷市にこの地方花を制作するカルタ屋があったと思われるが、昭和前期(1926~45)までは京都や大阪のいくつかのカルタ屋で制作されていたようである。なお、かつて村井省三は、岡山には「備前花」と別に、四十九枚目の鬼札に金時の絵が描かれている「金時花」と呼ぶ花札があると述べていたが[2]、この岡山の「金時花」と「備前花」の関係、あるいは、徳島の「阿波花」別名「金時花」との異同ははっきりしない。

この地方札の紹介の最後に「関東花」について一言しておこう。私の手元には、群馬県、つまり上州の博徒の家系から出た明治前期(1868~87)の花札が数組ある。また、「村井カルタ資料館」には、ロンドンのカード・オークションに出品されたこの時期の花札が何組かある。これらは、和歌の表記がない武蔵野というグループにまとめることができる。同様の図像のものは他にも何組か発見されているし、東京のおもちゃ絵屋が明治二十年代(1888~97)に盛んに売り出した花札シートも同じような図像である。東京に出回っていたので外国人の興味を引いたのであろうか、国外の博物館やコレクションなどでときどき見かけたし、外国人の書いた花札に関する文章の挿絵にもよく登場している。私はこれらを東京製だと考えているが、使用地が上州など関東各地に広いので「関東花」と呼んでいる。なお、武蔵野の末期には京都の臼井日月堂や田中玉水堂などでもこういう和歌抜きの「武蔵野」という図像の花札を制作している。東京向けの商品であったのか、岡山県の備前花なのかは分からない。

AMNH博物館-惣金関東花札ー明治二十年代
AMNH博物館-惣金関東花札ー明治二十年代

なお、令和二年(2020)になって、アメリカ、ニューヨーク市にあるアメリカ自然史博物館(AMNH)に、このタイプの賭博遊技系のカルタ一箱二組が所蔵されていることが発見された[3]。これは、明治三十一年(1898)に日本現地で取得して博物館に収めたものであり、明治二十年代に日本国内、とくに東京、横浜で販売、使用されていたものである。これを見ると、「武蔵野」の定型であるカス札上の和歌の記載が全くなく、「武蔵野」の伝統的な図柄からはすでに離脱している。そして、細かく見ると、①紋標「松」の札での松の描き方が「八八花札」の母体、「関東花札」特有の松であり、②紋標「梅」の梅の枝振りが「武蔵野」の形ではなく、「関東花札」、「八八花札」の図柄のものであり、③紋標「桜」の短冊札の短冊に明治期の花札に固有の「みよしの」という表記があり、カス札が「関東花札」、「八八花札」の桜花の咲き方であり、④紋標「藤」の「藤にホトトギス」の札は背景に三日月を描く「八八花札」よりも古い、満月ないし太陽を描く「関東花札」の図柄であるが、すでにその彩色は控えられていて輪郭線だけを残す描き方であり、⑤紋標「杜若(カキツバタ)」の「カキツバタ」の描き方が「関東花札」に近く描かれているが「八八花札」の定型からは多少違っており、⑥紋標「牡丹」はほぼ「八八花札」の定型であり、⑦紋標「萩」の「萩に猪」の札で猪が萩の間に潜むか眠る「武蔵野」の時期からの定型を維持していて、京都製の「八八花札」のように、猪の後ろ足が描き加えられて走る姿にはなっておらず、また、後ろ半身が魚の尾のようにえがかれてはおらず、⑧紋標「芒」の「芒に満月」の札で、背景の夜空が「武蔵野」とは異なり、すでに赤色に描かれて「八八花札」に近づいており、⑨紋標「菊」の菊花はいずれも切り花ではなく自然の花枝であり、「菊に盃」の札の「盃」には既に「八八花札」の「壽」の字があり、⑩紋標「紅葉」の札の鹿が「武蔵野」から大阪の「八八花札」に引き継がれたタイプの痩せた小さめの鹿であり、⑪紋標「柳」の「柳に人物」の札が「武蔵野」の「雷雨の中を走る男」からすでに「八八花札」の「雨中にたたずむ公家(小野道風)」に変化しているが、カス札は単に柳の枝だけで、まだ「八八花札」のように全面を赤く加色するようにはなっておらず、⑫紋標「桐」はすっかり「八八花札」の図像になっているという特徴がある。これらを総合的に考察すれば、明らかに、「武蔵野」からカス札上の和歌の表記を廃して花札図像の変革の先頭に立っていた、「八八花札」への移行期の江戸(東京)好みの「関東花札」のセットと判断される。

また、このカルタでは、ほかに、各紋標の「生き物札」に現れる赤い雲の位置や形が「八八花札」とは微妙に異なり、また、「松」「梅」「杜若」「芒」「桐」のカス札に青い雲が描かれているなど、「八八花札」の前身、明治前期(1868~77)の「関東花札」、あるいは明治20年代(1887 ~96)の「東京花」ないし「横浜花」と考えられる。この時期の東京か横浜で購入されてアメリカに渡ったものであろう。なお、この花札にはすべてのカードで金銀彩が施されている。いわゆる「惣金」という豪華版の花札である。それ以前の時期の花札では、「光物」などの高点札には金銀彩を加えることがあったが、明治20年代(1887~96)に入ると、室内の照明が従来の蝋燭(ろうそく)による証明から一層明るい電気照明に変わり、金銀彩が微妙にその光線を反射して、手中に高点札があることを暴露してしまう事態が生じた。そこで明治二十年代(1887~96)には、すべての札に金銀彩を施してその欠点を補うものが登場したのであるが、明治三十年代(1896~1905)以降の「八八花札」では逆にすべての札から金銀彩を排除して、むしろ「無金花札」であることが宣伝文句になった。両者の境界は明治二十年代(1887~96)であった。この点からも、このカードはこの時期のものと知れる。


[1] 平林たい子「黒札」『日本文学全集46平林たい子』集英社、昭和四十九年一四二頁。

[2] 村井省三、「日本の賭博かるた」『別冊太陽いろはかるた』、平凡社、昭和四十九年、一六三頁。

[3] PR 06 CN 990 Playing Card Collection Container 14

おすすめの記事