カルタの近代を性格づけた大きな要素はカルタの対外的な進出である。日本は東アジアに巨大な帝国を築き上げたが、その対外的な膨張と侵略の先端では常にカルタ博奕が盛んに営まれており、日本は言わば「花札帝国主義」の国になっていた。
日本の膨張の第一段階は明治前期(1868~87)の北海道と琉球にあった。北海道では開拓使と屯田兵の体制が整えられ、農業、漁業、鉱業が盛んに営まれた。そこには大量の労働力が必要とされ、大量の人間が本土から送り込まれ、その管理、監督と簡易な慰安のツールとして、花札を主にしたカルタ賭博が活用された。北海道各地の労働者の宿舎や飯場では毎日賭場が開かれ、獲得した賃金の相当部分が胴元、つまりは雇用者に回収されてしまい、過酷な労働の職場から離脱する独立資金の確保はなかなか困難にされていた。この新規に開かれた市場を目当てに東北地方や京都のカルタ屋から賭博系のカルタが送り込まれた。主要な商品の花札の場合は、図像に多少の特徴が加わり、「北海花」と呼ばれる「地方札」が開発された。「北海花」の遊技法はよく分からない。尾佐竹猛はカブ系の遊技法として「トッパ」(北海道)と記録しているが詳細は不明である。しかし近年になって石狩地方と釧路地方での調査が行われ、この名称での花札の遊戯が紹介されている[1]。一方、琉球では琉球処分によって日本化が進められたが北海道と違って日本人が大量に送り込まれたのではなく、現地の人々の間では日本のカルタ賭博はさほどに浸透することがなく、独特の特徴を持った日本式カルタの文化は栄えることがなかった。
日本はその後日清戦争の勝利によって台湾を領有し日本人が送り込まれたが、ここは元来華人文化の地であり、とくに台湾南部では華人文化圏での賭博遊戯が盛んであった。植民地支配を進めた当局は、阿片の吸引、彩票の売買、風俗の乱れなどへの対策とともに、「四色将棋牌」「馬吊紙牌」などのカルタ賭博、各種の骰子賭博、その他の雑賭博の規制も課題としていて、そこに台湾独特の日本式のカルタ賭博が流行して「台湾花」のようなものが定着することはなかった。
明治二十年代(1887~96)、三十年代(1897~1906)は、日本人のアメリカ移民が盛んな時期でもあった。まずハワイには農業労働者が渡り、花札賭博も持ち出された。たまたま移民には熊本県出身者が多かったことからハワイでは熊本の地方的な遊技法が定着した。大阪の土田天狗屋、松井天狗堂、京都の日本骨牌製造や山城屋などがこの需要に自社ブランドの花札の輸出に熱心であった。また、ハワイのホノルルには「文明堂」というカルタ屋ができて、日本のカルタ屋に注文を出して下請け生産を行わせていた。
一方アメリカ本土では西海岸各地に移民の一世の多くが滞在した。この地の出稼ぎ日本人や現地で家庭を築いた日系人の間でも花札遊戯は盛んであり、「ハワイ花」、別名「サクラ」となった。また、東海岸の地域でも、日本の花札を普及しようとする動きがあった。
明治四十年に博文館から出版された松浦政泰編『世界遊戯法大全』には、「ガゾー・フォアデー氏」が考案した、花札とトランプを折衷したような「新花がるた」(“The New Game of Flower Cards”)の改訂版が紹介されている。「ガゾー・フォアデー氏」とはGazo Foudjiという人物のことだが、これはニューヨーク滞在の日本人画家、藤雅三のことであり、藤が自身をGazo Foudjiと英文表記していたのを「ガゾー・フジ」と読まないで妙にアメリカ人っぽく読んでしまったのであった。それはさておき、このカードは、元来は、紋標が“daisy”「ヒナギク」、 “rose”「バラ」、“iris”「アイリス」、“forget-me-not”「ワスレナグサ」、“sweet pie”「スイートピー」、“jonquil”「キズイセン」、“lily-of-the-valley”「ドイツスズラン」の七種類で、各々の紋標ごとに八枚のカードがあり、そこに、花札で言えば「鬼札」に該当する、ハートに矢が刺さっている「ラブ」の札があり、合計で五十七枚である。このヴァージョンは、明治三十年代のアメリカの婦人誌に紹介されている[2]。私は、この事情をマルクス・リケルト氏の教示によって知ることができた。
そして、藤雅三は、これに「更に大に更訂を加えて、日本化した」。『世界遊戯法大全』が紹介しているのはこちらのヴァージョンである。この改定版では、紋標は「梅」「櫻」「薔薇」「牡丹」「藤」「百合」「蓮」の七種類で、各々が八枚、合計五十六枚に一枚の特別札で構成されている。「梅」の主札は「菅公の像」、「櫻」は「桜の陰に鎧武者」、「藤」は「鎌足公の像と藤原家の定紋」、「薔薇」は「薔薇を手に持つヴィクトリアの像」、「牡丹」は「牡丹園に楊貴妃」、「百合」は「百合を胸にかざしたるナポレオンの像」、「蓮」は「釈迦の像と真鍮製の造花」である。日露戦争の勝利により大いに意気が上がったのであろうが、アメリカの市民がこれによって日本の歴史や文化に関心を深めたとは考えられない。むしろ、急速に興味を失っていったのではなかろうか。この辺は、在米の日本人文化史の一コマとしても興味惹かれるところであろう。ロシアに勝って優秀な日本の文化は「文武両道」であり、「文」は菅原道真、「武」は藤原鎌足で代表されるなどと言っても、アメリカ人は一向に興味を示さず、この「新花札」は一部の日本人にしか受け入れられなかったであろうし、その人たちにしてみれば、このような見慣れない変形のカルタ札でなく、本来の花札の方がよっぽど使い勝手が良かったのではないだろうか。
また、藤雅三より二十年ほど後の話だが、ニューヨークの日本字新聞「紐育新報」(“The Japanese Times”)に、日本人が考案した「新花札」の紹介記事がある。これは、在米の「茂木桃井組」社員、大圃規矩(英文名:Kiku Ohata)が考案したもので、“Book of American Hachi-ju-Hachi”(Private Edition, 1926)と題する詳細な遊技法の解説本も出版されている。これについては、同紙の一九二六年七月一四日の紙面の記事が分かりよいので、それをそのまま転載しておきたい。なお、この新聞記事の件もマルクス・リケルト氏の教示による。
麻雀遊戯から花札へ 交際社會に「八十八」紹介 大圃規矩さんが新らしい試み 在米の粹人好事家中には日本在來の花かるたをアメリカ風に改造して、これを米人社會に紹介したならば異常の興味を惹くのみでなく日本人の特徵を理解させる一方便ともならうといふ考へを持つてゐる者も尠なからずあるが、さて如何に改造すれば米人の嗜好に適するであらうか、又その弄び方をどう說明すればよいか等の要点になると皆行き詰つてゐたのである。然るに過去三四年間ビジネスの余暇を利用して 百方工夫し、若心慘儋の結果所謂米化した「新花かるた」なるもが出來て今回版權商標を專有するまでになつた事實がある。それは茂木桃井組の社員で茨城縣出身の大圃規矩君によりて完成されたが、大圃さんは在米十余年茂木桃井組の社員として眞面目なビジネスマンの典型として將來を囑望されてゐるが、元來名藝多能の士で登山釣魚などの戶外運動にも熱心であると共にいつの間にやら「花札研究」に沒頭し組織的に花札の性質、遊戯としての價値を精査し又これをアナライズして一定の案を立て、暇ある毎にこれを改訂し修正して本年の春頃漸く完成したといふ自覺が出來、不取敢「ブック・オブ・アメリカン・八十八」なる一書を編述したのである。この書は大圃さんが執筆した英文で第一に花札の組織と大要を說き、第二に遊び方の本質を示し、第三に遊び方を敎へ、第四に二人若くは四人組の遊び方を擧げ、第五に計算の方法を詳述し、第六にゲームの擴大、第七に得点、第八にさらしの特典を擧げ、第九に親のチャレンヂ、第十に雜件を說明してゐるが行文は流麗穏雅にして而かもわかりよく書かれてゐる。ゲームそのものゝ搆成は從來と異る点なきも、その最も特色とする点は米人に理解し易き草木を用ひてゐる。仮令ば一月は工バグリーン、二月は梅の代りにハヤシンス、三月は櫻、四月は百花、五月はパンジイ、六月は菫、七月は蘭、八月は薔薇、九月はゴールドン・ロッド、十月は紅葉、十一月は菊、十二はホ-リィを用ひてゐる[3]。花札の繪模様色彩まで大圃さん獨力で描いたものであつて、これが極彩色の花札となつて市場に出れば確かに米人を魅するに違ひない。その他の特徴としては札の級位を示すためにユニフオームな印号を用ひたる事、ゲームの要点に日本語を直譯せず新しく上品な英語の名前を付けた事、カードの大きさを自在にして要求次第ウヰスト・サイズ位のものを製作し得る樣にした事、チッブを使用するのを好まない上流社會の習慣に合ふやうスコアシートを附加した事であるが、尙ほ大圃さんは入門者のためには別に簡單な素人の遊び方をパンフレッ卜として發刊した。日本故有の文藝的情味には或は欠けているかも知れないが、ブリッヂやポ力を弄ぶ物質主義の米人には余りセンチメンタルでない点が却つて適合してゐるとの批評もある。孰れにせよ近來珍らしい試みである。 |
なお、この記事で「大圃さんは入門者のためには別に簡單な素人の遊び方をパンフレッ卜として發刊した」とされているものは、“How to play hachi-hachi, Japanese classic in card game : In six lessons”であると思われるが、私はこの書の表題と所在を知るのみで中身は未見である。
日本はその後に朝鮮半島への干渉を強め、大韓帝国の開国にともない花札が「輸出」された。その動きは日露戦争後に韓国を併合して植民地としたことで一挙に拡大し、朝鮮では花札が大ブームとなり、進出した日本人だけでなく、朝鮮人の間でも盛んに用いられた。この新市場向けには、特に安価なカルタが「移出」され、機械印刷、「切り放し」の「朝鮮花」が開発された。朝鮮には各地の遊技法が持ち込まれたが、とくに「コイコイ」に似た遊技法が盛んで、「ゴー・ストップ」という名称で今日まで活発に用いられている。また、日露戦争で得た関東州でも日本人社会で「花札」が用いられ、「大連花」が開発された。「大連花」の遊技法もはっきりしないが、北部九州で盛んだった「六百間」という遊技法が満州で用いられていたという報告がある[4]。一方、同時期に確保された南樺太では「樺太花」があったとされているが、その実態はよく分からない。後に京都の任天堂の倉庫で発見された「大一六」と呼ばれる賭博カルタがこれではないかと言われている。また、第一次世界大戦の後には南洋群島を委任統治領として獲得し、多数の日本人が送り込まれた。これにともない花札などの遊技も伝わった。ここでは現代に至るまで花札の遊技は盛んに愛好されている。特殊なのはアラフラ海のオーストラリア領トレス海峡諸島にある木曜島で、真珠貝の採取のために和歌山県南部の潜水漁夫が大量に移住し、それにともない、花札だけでなく、南紀の漁師が用いていた「入の吉」などの「カブ」系のカルタと遊技法も伝わり、現地の人々の間にも伝播した。
[1] 石見博昭「とっぱとどんつく(その一)」『季刊ゆうぎ史』第七号、遊戯史学会、平成十三年、九頁。
[2] “The New Game of Flower Cards: By Gazo Foudji ” The Ladies’ Home Journal. Vol.22, p.114, 1904.
[3] この部分は、「十二はホゐる。花札の繪模―リイを用ひて様、色彩まで」と植字が乱れている。 [4] 黒宮公彦「六百間(大連花?)」『季刊ゆうぎ史』第四号、平成十二年、一六頁。