「百人一首」のかるたは、明治年間(1868~1912)にも盛んに用いられたが、順風満帆であったわけではない。それは様々な批判にさらされてもいた。
まず、何よりも、「百人一首」という歌集の評価が定まらなかった。この歌集が日本の和歌史を飾る百人の優れた歌人、あるいは感動的な百首の和歌を集めたものであるとは考えられないという批判は、すでに江戸時代(1603~1867)から存在していたのだが、明治時代(1868~1912)になって、それが凡歌集であるとの、選者の藤原定家に対する批判が公然と高まってきた。百首を通読しても、全体を俯瞰してみても、歌人選出の基準、和歌採用の基準が見えない。逆に、歴代の勅撰和歌集に加えられ、多くの秀歌を残した歌人が何人も抜け落ちている反面で、およそ秀逸と評価されたことのない凡歌の人で、選者の藤原定家の縁故者が相当数紛れ込まされている。名の通った歌人の場合でも、他にいくらでも秀歌があるのになぜかそれは選ばれず、凡歌、凡作が採用されている。このことへのいら立ちが多くの人を覆った。
混乱に輪をかけたのが、この歌集の数奇な運命であった。すなわち、この歌集の原型は、本来は歌道の宗家、御子左家の門外不出の「秘伝」であり、その重要なポイントは、後継者への、それも本来的には同家の血を受け継ぐ者への、一子相伝の「口伝」として残されたと伝えられている。実際、藤原定家は、宗家を継ぐ長子の為家に直接に口伝えで伝授している。しかしそれは早くも為家の代で途絶え、その家系、二條家に伝わらず、後に生じた御子左家の相続争いの際に、定家の残した歌集、文献その他の歌道に関する遺品が為家の遺言で冷泉家に伝わり、口伝も途絶えている二條家は、定家、為家の歌道、歌学を継承しておらず、そもそも宗家の資産を相続する資格がないと非難、攻撃される始末であった。しかし、かといって、為家の死去後に同家に伝わっていた歌道の遺品をすべて相続した冷泉家にも百人一首の「口伝」は伝わらず、その内容が失われていた。それどころか、百首を書き連ねた定家自筆の原典も失われてしまった。今日伝わる最も標準的な「百人一首」は、もともと為家以後に編纂された歌集で、ひとたびは二條家の断絶で失われ、その後、二条家を復活させる作業の中で、どこからか持ち込まれたバージョンであり、それが二條家の家中に絶えることなく伝来されてきたものと神話化された。失われた「口伝」も、室町時代の中期に二條家復興の志を持った歌人が想像によって作り出した。残念なことに、その復元者の構想力が平凡で、同じく御子左家に発する「古今伝授」のイメージに引っ張られすぎて二番煎じになっている。私は、「百人一首伝授」は、おそらくは、「古今伝授」とはまるで異なった目的を持つ異種のものであったと想定している。私から見れば、江戸時代に広く受容された「百人一首伝授」は、この歌集の元来の「口伝」とは似ても似つかぬ「新作」であったと思われる。
いずれにせよ、今日伝わる「百人一首」は室町時代の作品である。そして、ここで再発見されたバージョンの歌集が、戦国、江戸初期の京都で、三條西家や細川家の活躍で朝廷に採用され、復活創作された「口伝」とされる和歌の解釈が、「百人一首伝授」「御所伝授」として演じられ、二條家流の「百人一首」が正統の地位を得て広く各界に継受されたのである。
ところが、幸か不幸か、江戸時代初期(1603~52)に「百人一首」の刊本を出版し、それの復興に尽くしたのは本阿弥光悦、角倉素庵らであったが、彼らは二條家流とは異なる歌人名の表記、和歌の配列、和歌本文の表記を含んだ「百人一首」を広め、また、同時期の朝廷の繪所に連なる土佐派の絵師が古来の「百人一首歌人繪」に拠ることのない自前のオリジナルな「百人一首」歌人絵を提供したので、事態は複雑になった。そうした非二條家流の「百人一首」と、それを基にした同じく江戸時代初期(1603~52)の「百人一首歌かるた」は、元禄年間(1688~1704)までに、北村季吟、狩野探幽、菱川師宣らによって改められ、今日まで伝わる「百人一首」と「百人一首歌かるた」の形が確立したのであって、定家がこれを構想したであろう鎌倉時代中期の「百人一首」という歌集との異同も不分明である。こうした事情があるので、社会で通用している「百人一首」は、藤原定家による本来の撰歌の趣旨も、定家が想定したであろうこの歌集の活用法も不明になって漂流していたのである。
明治年間(1868~1912)に伝わった「百人一首」はこのようなものであった。これを受けて「百人一首歌かるた」も、元禄年間(1688~1704)以降の形をそのまま継承していた。そこに、社会の変化、特に西欧風の製紙業や印刷業の登場があり、新技術を駆使した新しい感触の機械製のかるた札が作られるようになったが、かるた札の内容や遊技の方法は旧態依然としたものであった。この時代の人々にとっては、「百人一首」の遊技は正月の風物であれば十分で、このかるたの遊技がいつ生じてどう伝承されてきたのかという文芸作品としての由緒は関心の外にあった。歴史的な史実としては「百人一首」は江戸時代初期(1603~52)に発祥し、元禄年間(1688~1704)に大転換して近代に至っているのであるが、人々の間では、この歌集のできた鎌倉時代中期には、朝廷では現実にこの歌人たちの姿が存在していたと誤解され、あるいは、このかるた絵は平安時代の宮廷文化を見事に表しており、鎌倉時代に忠実に再現したものであるとする幻想のほうが好まれて通用していた。
「百人一首」の和歌集としての評価に関しては、近代の和歌への道を開いた歌人の正岡子規がこれを厳しく批判したことはよく知られているが、文芸としての評価の低落に伴い、かるたへの学術的な関心も低下し、主として正月の家族団らん、知人友人との交際の遊具として用いられるにとどまるようになった。そこにあったのは、遠い昔にこの日本に存在していた幻の王朝文化が百人の歌人の絵姿に現出しているという幻視であり、百首の名歌が王朝の文化を代表しているという幻覚であった。この幻覚は今日まで残り、毎年正月に、滋賀県内の神社で百人一首かるた選手権大会が開催され、このかるたが考案された江戸時代初期(1603~52)の衣裳でもなければ、その母体となった歌集が編まれた鎌倉時代中期の衣裳でもなく、平安時代の宮廷衣裳に身を包んだ女性たちがこの遊技を楽しむという奇怪な時代考証が繰り返されている。こうして風俗絵巻に堕した事情の下では、「百人一首歌かるた」も、他の「源氏物語歌かるた」「伊勢物語歌かるた」「古今和歌集かるた」「三十六歌仙歌かるた」「自讃歌歌かるた」などと同じように、文芸の遊技としては衰退するように見えた。