昭和後期(1945~89)の日本社会ではカルタ文化は大きく様相を変えた。まず、「いろはかるた」では、伝統的な「犬棒かるた」の人気が低調になる一方で、戦後教育的な内容のものとマスコミの人気者のキャラクターものへの二分化が進みながら毎年の正月に大量に販売された。教育的な内容のものは、教材の製作会社や教育関係の出版社などから、伝統的な「いろはかるた」や「童話かるた」「童謡かるた」「よいこかるた」「スポーツかるた」「交通安全かるた」などとして提供された。ただ、その内容や図像は千差万別で一定せず、特定のパターンが定番化して長期に遊ばれて定着することがなかった。また、幼稚園や学校でまとめて買い上げて児童にクリスマス・プレゼントやお年玉として配布することが多く、教師の好みや業者の売り込みで選択されるので、商品に児童の希望や喜びが反映することが少なくなり、実は保護者が費用を負担しているのだが児童には園や学校から無料でもらったものという印象もあって粗末に扱われて、実際には遊戯に用いられることはなく簡単に見捨てられるものが少なくなかった。また、この種のものを店頭で親が購入しようとしても、一定の内容のものが安定して供給されるのではなかったので肝心のカードの内容が分からないままにパッケージのデザインを判断材料にして購入して子どもに与えることとなる。それが分かってくると制作会社もパッケージに力を入れ費用も掛ける一方で、カードは粗末な素材、凡庸な図像、平凡な文章のものが増えていった。

幼稚園の贈り物に好まれたかるた
幼稚園の贈り物に好まれたかるた
昭和後期の教育系かるた
昭和後期の教育系かるた

パッケージだけで選ぶという事情はキャラクターもののかるたでも同様であった[1]。この種のかるたは、昭和二十年代(1945~54)は童宝社が制作した漫画家の横山隆一や長谷川町子らの新聞連載漫画の主人公を主題にしたものが人気を博し、昭和三十年代(1955~64)の高度経済成長期には様々なかるたが考案、制作されるようになり、とくにラジオ番組、映画俳優、流行歌手などを主題にする物が盛んになった。昭和四十年代(1965~74)以降のテレビの時代になると、テレビ番組の主人公、中継されるスポーツ番組のヒーローなどが人気になり、漫画番組、アニメ番組の主人公が登場するものが爆発的に売れるようになった。画家としては山川惣治、小松崎茂、倉金章介、石田英助などが活躍した。また国際社会への復帰となったヘルシンキ・オリンピック、南極探検隊の派遣、皇室の慶事、月面着陸などの出来事にちなむかるたも発行された。

「マンガフクチャンカルタ」(横山隆一、童宝社)
「マンガフクチャンカルタ」
(横山隆一、童宝社)
「どうようかるた」(長谷川町子、童宝社)
「どうようかるた」
(長谷川町子、童宝社)
高度経済成長期の子ども向けかるた
高度経済成長期の
子ども向けかるた
ラジオ、映画愛好時代の人気者かるた
ラジオ、映画愛好時代の
人気者かるた
テレビ、スポーツ愛好時代の人気者かるた
テレビ、スポーツ愛好時代の
人気者かるた
漫画番組、アニメ番組のキャラクターかるた
漫画番組、アニメ番組の
キャラクターかるた

日本社会では正月には新品の「いろはかるた」があるべきだという観念は残っていたので、年末には大きな需要が見越されるので大売り出しになって一年間のかるたの多くはこの時期に供給されていたが、購入する者には各々のかるたの内容は不明であった。この種のかるたを供給していたのは「小出信宏社」と「鈴木出版」の二社に限定されていて特に後期には「小出信宏社」の一社独占であったので、親しい友達や親戚の家族などがすでに購入していた場合などは辛うじて内容が分かったが、結局はどのかるたを購入するのかの基準はパッケージだけであった。そのためにかるたの人気の上下は激しく、テレビでの放送が終了すると途端にそのかるたはほとんど売れなくなり、放送局の都合で年末に突然放送打ち切りになった番組のかるたでは膨大な売れ残りが生じた。こうした流行り廃れのスピード感覚は著しく過敏であり、たとえば国民的な大行事であった東京オリンピックの場合でさえ、開催年の正月は十月の開催からするとまだ時期が早過ぎるので「東京オリンピックかるた」が登場することはなく、翌年の正月はもうすでに二ヶ月も過去のことになっているので売り上げが見通せず、やはり東京オリンピック関連のかるたはほとんど見たことがない。

「いろはかるた」の世界では、昭和四十年代(1965~74)末期に「小出信宏社」が経営上の失敗で突然に倒産した。当時は教育系のかるたとキャラクターもののかるたで市場を二分しており、各々が二百万組程度の需要を持っていたので、キャラクターものについて一社独占状態の供給者が消滅したことは二百万組のかるたの供給が途絶えたことを意味していて大混乱を生じさせ、その空白を埋めようと多数の新規参入業者が現れて数年間は混乱が続いた末に、「ショウワノート」と「セイカノート」の二社が生き残って主たる供給者となった

ショウワかるた、セイカかるた①
ショウワかるた、セイカかるた①
ショウワかるた、セイカかるた②
ショウワかるた、セイカかるた②

私は昭和六十年代(1985~89)にいろはかるた業界の関係者に集中的にヒアリングを行った。廃業したかるた屋の家族は「かるた」には良い思い出がないのか調査に非協力的であっさりと断られたことも多かったが、「ショウワノート」「セイカノート」のほかに、教育系かるたでは「育英館」「ジャクエツ」「チャイルド」「フレーベル」「世界文化社」「ひかりのくに」「新泉社」「東文堂」「太陽社」「富田屋商店」、キャラクターもののかるたでは、「光明社」「グリム」「ワコー」「ヤングエポック社」「富士屋書店」「任天堂」などの話を聞くことができて、残っていたかるたを分けてもらった。「いろはかるた」の歴史を作った「湯浅春江堂」「童宝社」「小出信宏社」「鈴木出版」の関係者である湯浅絵伊、北原万里夫、小出真士、鈴木雄善らの回顧談は特に参考になったし、ほかに画工では、鈴木義男、黒埼義介、石田英助、太田じろう、彩田あきら、宮坂栄一らの本人や関係者、現役の根本圭助、西岡たかし等から直接に話が聞けた。蒐集したかるたは千組を超えたが、「大牟田市立三池カルタ・郷土資料館」に全て譲った。


[1] 谷敬「状況玩具論第十四回、カルタはクールなメディアである」、『玩具商報』昭和四十二年十二月十五日号、商報社、五〇頁。

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