こうして、私は、素人らしい何点かの疑問を抱くようになった。そしてよく見れば、すべての疑問は同じ方角を指している。私には、従来の百人一首発祥論が語ってきたところとはまるで違う方角を向いている一群の「歌群」が見える。以下でそれを説明しよう。 

村井は『明月記』を御子左家の「家記」(家の日記)だとする(村井康彦『藤原定家「明月記」の世界』一二頁)。「家記」とは、公家の家系にある家族に歴代伝えられるべき故実の書である。村井は『明月記』にある「此の人は有識(ゆうしき)の余流と雖(いえど)も家記を持たず、常に音信(手紙をよこす)、毎度委しく示す」と言う記述を引用しつつ、定家の意識を説明している。公家は、伝統的な宮廷儀礼に従って生きる運命にあり、そこで、子孫にその次第を教え、その家の者に求められる立ち居振る舞いを指南する記録が必要となる。その家の格に合わせた、公家にとって必要不可欠の書が、その家の「家記」だということになる。私は、村井のこの認識に賛同している。公家は、有職故実の縛りのきつい宮廷で生活するのであり、昇進するにつれて立ち居振る舞いにも変化が求められる。それを子孫が滞りなく、礼儀正しく行うには、それの教本が必要であり、そういうものが家中にあることが名家の公家の格式であり、宮廷での身を守り、立身するうえでの大きな助けになる。だから名家にはその家に独自の、秘密の「家記」があるべきなのである。 

そして、歌道で仕える公家の家には、「家記」とならんで、歌学で尊敬される「歌道家」の家柄、宗家、家元にふさわしい、歌学の奥義を記した和歌の書があるはずである。以下ではそれを、拙い造語であるが「家歌記」と呼んでおきたい。こういう「歌群」があるべきである。それは、一子相伝、師資相承に関わる秘密の書であり、宗家、家元の主だけが知りうるものである。私は、晩年の定家は、この御子左家の「家歌記」となる「歌群」を編成して、そうした「家歌記」を後継者の爲家に伝授しようとしていたと理解している。これは多分に想像が勝った推測であり、私のような和歌史の素人、定家研究の素人ならではの指摘であると思うが、この思いは容易に私の脳中から去らない。 

なお、堀田善衛は、定家が、承久年間頃に大きく変貌していると言う。「承久以後になると、歌論は次第に色濃く歌道という、和歌芸の完成というよりは、その固定化、定式化への意図が強く出て来るのである。したがって、歌道はまた家道に通じるようになる」のであり、「承久三年の…『顕註蜜勘』…跋文には「こればかりもかれこれつたへ、…返々(かえすがえす)も窓のほかに出され侍(はべる)まじ」と明らかに書いてある。窓のほかに、とは、家の外に出すな、門外不出の秘伝とせよ、と子孫に対して命じているのである」(堀田善衛『定家明月記私抄 続篇』、新潮社、昭和六十三年、一三三頁)。そして、五年後の嘉禄二年の『僻案抄』の奥書には、「今耄久(ぼうきゅう)ノ期(耄老のとき)ニ迫リ、余喘ノ尽クルヲ顧ミ、愚老ノ歿後ニ至リ、遺孤(残された子孫)ノ蒙昧ヲ教フルタメ最要ヲ抽キテ、密々染筆スル所ナリ。此ノ草(草稿)注付ノ後、拾遺相公一人ノ外、更ニ他見セズ。」とある(堀田善衛『定家明月記私抄 続篇』、新潮社、昭和六十三年、一三五頁)。相公は参議の唐名、後継者の爲家を指す。御子左家の後継者である為家一人に読ませる書、「拾遺相公一人ノ外、更ニ他見セズ」と書かれているそのままに、その他の者の閲覧を厳禁する秘密の書、これが「家歌記」である。 

私は、今日伝わる「百人一首」はお手軽感のある歌集だと指摘したが、これについては、専門研究者から、当時の百首歌の流行との関連性を考察するようにとの指摘を受けた。百首歌が流行していたこの時期には、百首というのは一つの標準的な歌集のサイズであって、特にお手軽というべきではないという指摘である。確かに、平安時代後期、十二世紀頃から、様々な「百首歌」が現れた。村井の書も、そうした時代の特色を「2 百首歌の時代」(『藤原定家「明月記」の世界』二四頁)として描き出している。ただ、この「百首歌」は、一人の歌人がいずれかの主題で百首の和歌を詠むという趣向が基本であり、それを書き残した単身の歌人の歌集も何点かある。定家も、生涯にわたって二十回以上、百首歌を詠んでいる(高野公彦『明月記を読む 定家の歌とともに 下』、短歌研究社、平成三十年、一五七頁)。だが、盛んだったのは、何人かの歌人の各々が詠んだ百首の和歌を集めたところに成立する「百首歌」と言う歌集の形態であった。堀河院の『堀河百首』(『堀河院御時百首和歌』)は十六人の歌人による千六百首の歌集であり、崇徳院の『久安六年御百首』は十四人、千四百首、後鳥羽院の『正治二年院初度百首』は二十三人、二千三百首である。また、院は建仁元年に多数の歌人に「百首歌」の提出を命じ、翌年それは『千五百番歌合』、千五百番の歌合せ、右方と左方で合計三千首の壮大な歌集となった。 

またこの時期には、もっとコンパクトに、一人で「五十首」を詠むことがあった。「院句題五十首」の場合は、後鳥羽院、良経、慈円、俊成卿女、宮内卿、定家の六名が各々自作の五十首を提出している。和歌の世界では、実力が足りなくても、たまたま名歌を作ってしまうことがある。この「偶歌」ではなく、本来の作歌の力を示す名歌を生み出すためには、一人で五十首なり百首なりを詠んでその力量を示してみせねばならない。それはちょうど現代社会での研究者が、たまに所属機関の査読もない紀要に小論文めいた記事を載せたり、とっくに時効になっている旧説をなぞっただけの新書程度の入門書を書いたりしているのではまともな研究者としての評価の対象にさえならない。やはり相当な労力を投じて、相当なボリュームに達する詳細な専門研究書を単著で世に問うてこそ、研究の過程もあらわになり、いっぱしの研究者として認められるのと似ている。五十首歌、百首歌にはそういう意味でその歌人の作歌の力を示す重厚な迫力がある。 

このほかに、百首歌の先例として考えるべきなのは『時代不同歌合』である。この歌集では、百人の歌人の和歌が一人三首ずつ、合計三百首集められている。ただ、これは「百首歌」とは題されていない。そこで、定家がこうした先例の「百首歌」という用語法に準じたならば、「百人一首」は百人の歌人の和歌を一人百首ずつ集めて合計一万首と言う膨大な歌集になったであろうし、博覧強記の定家であれば不可能ではなかったと思う。しかし、成立したのはそういうものではなく、一人一首ずつで合計百首のコンパクトな歌集である。これはむしろ『時代不同歌合』の構成に近い。百人を二組に分けて、五十番の歌合せに設(しつら)える趣向も、各人三番、合計百五十番に編集した『時代不同歌合』に似ている。他方で、「百首歌」と「百人一首」ではボリューム感がまるで違う。私は、専門家の指摘にもかかわらず、「百人一首」は「お手軽」という印象を改めることはなかった。 

さらに付け加えると、「百首歌」は選者が同時代の歌人の和歌を集めた、いわば横に広がる歌集であるのに対して、「百人一首」は『万葉集』や勅撰和歌集である「八代集」から広く歴代の歌人の和歌を集めており、いわば日本和歌史を縦断して縦に連なる「歌群」である。選者の定家が、日本の全和歌史をまとめて評定して歌を選んだことになる。ここで素人の勝手な例えをすると、「百首歌」は、一人に何曲も歌わせてじっくり聴かせる有名な歌手のライブ、コンサートの中継番組、例えば「昭和の歌姫、美空ひばりが歌う持歌百曲の珠玉の歌曲」のようなものであり、「百人一首」は歌手百人の歌を一人一曲限り、それも放映の時間の都合でさわりの部分だけを流す「昭和の名曲、百人の歌手の競演」と言うダイジェスト番組のようなお手軽感が消えないのである。 

「百人一首」の誕生譚がこれまで混乱を極めてきたのは、その制作意図がよく見えないことに由来するのではなかろうか。「百首歌」の場合は、歌人を選ぶ天皇、上皇は、選出した歌人に、例えば春の歌二十首、夏の歌二十首、秋の歌二十首、冬の歌二十首、恋の歌何首、旅の歌何首、その他雑の歌何首、合わせて百首という編別を示して、詠むべき課題を出して制作意図を明らかにしていた。一方、「百人一首」の場合は、そうした編別が明らかでなく、編成の混乱が様々な憶測を呼ぶ。織田正吉の『絢爛たる暗号―百人一首の謎を解く』(集英社、昭和五十三年)の問題提起から数十年間に、後鳥羽院への思慕と式子内親王への恋慕を読み解いた者、水無瀬での遊興を追憶したとする者、一幅の風景画とする者、易経だとする者、曼荼羅だとする者、魔方陣だとする者など、定家の編集意図に関する多数の推測が世に現れては消えていった。だが、そのいずれもがどこかでうまく行っていない。 

「百人一首」の場合は、後世の研究家が定家を真似して、これを百枚の色紙に書写して考えるのは作業が大掛かり過ぎて敬遠されるであろうが、幸い、かるたという小紙片になっているので、江戸時代以降の研究家は、眼前にジグソーパズルのように百首を並べて、絵画鑑賞的な発想で考えることができる。古来、和歌集は横に長い巻子として物語のように展開して理解されてきたものであるが、かるたと言う表現形式の登場によって、これを十個×十個のピースで成り立つ絵画として把握するという発想が生まれる。あるいはかるた札四枚を一単位として、生じる二十五組のピースを五組×五組の構成で組み立てて考えることもできるようになる。共通する言葉のつながりが鎖のように、接着剤のように機能する。だが、こうした理解はどこかがうまく行っていない。 

ここで一歩引いてみて、「百人一首」という「歌群」は、主題なき歌集であり、歌人なき歌集であり、歌順なき歌集であると割り切ってみよう。つまりここでは、こうした情報をそぎ落として、各々の和歌の作品としての美しさ、定家の選抜と補正によって名歌へと化身するその手際だけが際立って見えてくるように編集されていると理解される。これはたまたま「歌群」として残っているが、そうある必要性もないのかもしれない。和歌の技法を学ぶ教材、もしそうであったとすると、それは教育的な観点からの編成物であって、そこに、歌集としての文芸的な、あるいは思想的な編集意図を探そうとすること自体が無意味なのではなかろうか。定家没後の後世の人士は、この「歌群」が室町時代以降に完成した歌集として再編集され、江戸時代初期に挿画付きの木版本が広く普及し、また宮中でも完成した歌集として解釈、観賞する「百人一首伝授」が行なわれるなど、二條流復興の旗頭として珍重されたこともあって、鎌倉時代中期、定家が編集した際の原始の姿を「歌群」ではなく「歌集」としてイメージする根本的な誤解をしているのではないか。これが私の抱いた大きな疑問である。 

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