それでは、この「歌群」はどのような性質のものとして編集されたのか。素人の私が考えたことを説明しておきたい。まず、この「歌群」の制作意図は、和歌の道の宗家、家元としての御子左家に代々伝わるべき、「家記」である『明月記』と並ぶ「家歌記」の制作であった。その内容は大まかに言えば『万葉集』以降の日本の和歌史を縦断するものであり、各時代を代表する万葉集と勅撰の和歌集を十分に読み解いた定家が、これらの歌集から選び出した歌に、そこに定家ならではの華麗な作歌の技巧、仕掛けを駆使する予定で加えたものである。つまりこの時定家は、日本の全和歌史を高みより睥睨(へいげい)し、秘かに、溢れる才能の技を用いて、魔術のように凡歌を名歌に転換させようとしたのである。これができるのが、勅撰和歌集の編纂を命じた歴代の天皇さえ凌(しの)ぐ和歌の道の宗家、家元としての権威であり、誇りであろう。 

ここで、ほんの一例だが、定家の作歌の技巧を見ておこう。建仁元年、後鳥羽院は『院句題五十首』を編んだ。作者は、後鳥羽院、九條良経、慈円、俊成卿女、宮内卿、定家の六名であり、各々が五十首、合計三百首の歌集となった。ここで定家が詠んだ歌の中に、「寄雨恋 あまそそぎほどふる軒のいたびさし 久しや人めもるとせしまに」がある。高野公彦はこう解説する。「『あまそそぎ』は雨だれのこと。上句は『久しや』を引き出すための有意の序詞である。…『ふる』は『降る』と『経る』の掛詞、また、『もる』は『目守る』と『漏る』の掛詞であり、さらに『降る』『漏る』は『あまそそぎ』の縁語である。そして『板びさし』が『久しや』を引き出す序詞となっている」(高野公彦『明月記を読む 定家の歌とともに 下』短歌研究社、平成三十年、四〇頁)。これがきらびやかな定家の世界である。 

かつて、島内景二は、後世の凡百の「歌人」による『百人一首』からの安直な「本歌取」を評してこう述べたことがある。「これが『百人一首』の力である。『たった百首さえ暗記できれば、あなたは、もう立派な歌人です』と言うお墨付きが、得られるのである。『百人一首』は、どんな人をも、たちどころに「歌人」にしてくれる」(塚本邦雄『珠玉百歌仙』解説、講談社文芸文庫、平成二十七年、二五〇頁)。確かに、「百人一首」風の歌を作れば、どれほどの凡歌であっても、和歌を詠んだことになる。だが、それだけでは、名手、宗家、家元にはなれない。だから御子左家の子孫が家元としての権威、信頼を得るには、そこをカバーするものとしての、定家に発して代々の当主に受け継がれる、和歌作りの技法を説明している秘伝が必要である。それは口述されるものなので記録されていないが、この技巧を用いて改訂を施せば、「百人一首」は全和歌史を縦断する名歌の集積になるのである。 

定家が口述で伝えた秘伝には、定家の基準で見て優れた技法の作品の解説であり、それから学ぶべき点の説明であった場合もあるであろう。そして、それとともに、あるいはそれと別に、この和歌は凡歌であるが、私、定家の技法をもって改善すれば、ほれこの通り名歌になったものを惜しいことをしているという、失敗作の教訓話があり、あるいは、陽成院のように、故あって歌壇から追放され作品を抹殺されて、わずかにそれを免れたたった一首の和歌しか残されていない歌人の消息や背景事実の説明があり、もしかしたらその席では、定家が記憶している、抹殺を免れて秘かに口伝えされてきた、どこにも記録されていない幻の陽成院作の和歌何首かの口述があったのではなかろうか。あるいはまた、承久の乱の勝者である新興の武士の詠む和歌への忖度の必要性の指導があったりしたことだろう。公家社会の歌壇で、特に配慮するべき公家の説明もあったのだろう。主筋の九條家関連の公家への配慮も申し付けた事であろう。承久の乱の敗者、後鳥羽院の側に付いた歌人たちの和歌の説明やその取り扱いの注意点についての教示もあったことだろう。 

そして、この「歌群」は、「返々(かえすがえす)も窓のほかに出され侍(はべる)まじ」「此ノ草(草稿)注付ノ後、拾遺相公一人ノ外、更ニ他見セズ」であり、一子相伝、師資相承で宗家の御子左家の奥深くに仕舞われて、その内容、解釋は宗家の当主だけが知りおくものである。そこには定家が漏らす口伝がついており、当主だけが先祖の定家の学恩を享受できるのであり、それを通じて、宗家、家元の地位は揺るぐことなく御子左家の家系に受け継がれてゆくはずであった。 

日本の文化史を見れば、どのような芸能の場合でも、家元、宗家の権威は隔絶しており、一門の門下生は皆この権威に従う。茶道において然り、華道において然り、能狂言において然り、歌舞伎において然り、剣道において然り、柔道において然り、相撲道において然りである。そして、定家という人間は、村井もいうように、栄達への欲望、野心が強い人であったが、それは定家個人の栄達というよりは、御子左家という家の「歌道」家としての栄達の望みであった。和歌の道の宗家、家元となる。この欲望は晩年の定家にあってもなお衰えず、いや、眼前の子孫を見るにつけての焦りにもなっていたのではなかろうか。 

村井は定家晩年の『明月記』には為家関連の記事の頻出(ひんしゅつ)が見えるという(『藤原定家「明月記」の世界』、二五八頁)。村井はそれを定家の為家への、父親としての愛着と説明しているが、私は、それに加えてそこには、御子左家の当主として、後継者への思いがあるように思える。定家は、自分の人生の締め切りが近づくのを自覚しつつ、御子左家の後継者の訓育に集中していったのではなかろうか。 

ところが、ここで定家の計算違いの事態が出来した。軽率な息子為家(ためいえ)は、この一子相伝、師資相承の秘儀が存在する事実を、妻の父、舅(しうと)である宇都宮頼綱(よりつな)に漏らしてしまった。あるいは、「伝授」の席での父定家の厳しい指導への愚痴をこぼしたのかもしれない。ここで頼綱が何を考えたのかは記録では明らかでないが、大いに驚いたであろうことは想像がつく。私は、ここに、なにがしか、頼綱の定家への不信が芽生えたのではないかと邪推している。定家は、承久の変に際しては親幕府派の公家の先頭に立ち、幕府側に協力的であり、朝廷方の情報も頼綱などに提供し、それゆえに敗退した後鳥羽上皇側からは朝廷、公家社会への裏切り者と考えられていたであろう。その定家だが、それでも消えない後鳥羽院への思慕の念をこの一子相伝の「歌群」に残しているのではないかという疑念は消されない。定家と後鳥羽院の関係はそれほど深い。そしてそれは、いずれ定家による後鳥羽院の復帰への動き、鎌倉方への裏切りに繋がる。そこで鎌倉幕府に忠実な武将であった頼綱は、定家に進行している事態を把握するために、その「歌群」の提示を迫ったのではなかろうか。 

もちろん、それはぶしつけな審問ではなく、歌学の師に開示を願う後学の徒としての礼を尽くしての依頼であろう。そこには、「讃岐院様は誠においたわしくあらせられます。あなた様も讃岐院様へのお気持ちはおありでしょうから無理にとはお願い申しませぬが、」とやや婉曲(えんきょく)に定家の気持ちを問いただす意味合いもあったであろう。そして、それに応えて定家が頼綱に送ったのが、色紙にしたためたこの百首の「歌群」の和歌であったのであるが、私には、嫌疑を避けるために頼綱への開示を求められるという微妙な立場に追い込まれた定家の、軽率な息子の行動に対する舌打ちの音が聞こえるような気がする。 

定家は、後鳥羽院の愛顧によって引き立てられてきた。一方で、鎌倉の源実朝を弟子に迎えて交際を尽くすなど、親鎌倉幕府の公家でもあった。したがって、後鳥羽院の怒りを買って勅勘を受けた際にも、また朝廷と幕府が激突した承久の乱の際にも、双方から動向を疑われ、対応を一つ間違えれば御子左家は取り潰され、廃絶に追い込まれる存亡の危機にあった。定家は、そこで、親鎌倉幕府派であった主家の九條家に寄り添って、ためらわずに鎌倉方についた。こうして、御子左家の長としての処世には長けていた定家であったから、息子の為家の無警戒な、頼りなげな行動には怒りもあれば将来の不安もあったことであろう。 

そして、定家から頼綱に贈られた「歌群」の色紙には、頼綱が疑ったであろう、承久の変の責で遠島の流刑に処せられた、後鳥羽院や順徳院の和歌は含まれず、後鳥羽院の宮廷の女性歌人の和歌さえもが排除されていた。当時の女性歌人の中では、とり分け俊成卿女と宮内卿が後鳥羽院のお気に入りであり、『院句題五十首』では六人の詠者のうちの二人が俊成卿女と宮内卿であったし、『千五百番歌合』でも大活躍してしばしば定家と番えられて定家を負かせているし、俊成九十の賀で「屏風歌」を作成する際にも十人の詠者に含まれているし、鎌倉将軍実朝を調伏するために建てたと言われる「最勝四天王院」の屏風絵和歌の詠者十人中にも俊成卿女が含まれている。彼女たちは、後鳥羽院とかくも近しい関係であったために、当時の歌壇で最も高名な二大ヒロインであり、それゆえに後鳥羽院、順徳院とともに歌人として抹殺されたのである。そして、ここまで徹底することで、自分には後鳥羽院への思慕はもはや存在しないというのが定家の弁明である。この変節をもって定家の人格をうんぬんすることは容易だが、風にそよぐ芦の葉のような中級公家、御子左家の主としては当然の、生き残りの知恵を絞った姿勢であろう。だから定家をあれこれ言うのは酷であるが、ただ残念なのは、この時期に最も活躍した、天才少女の宮内卿や代表的な女性歌人であった俊成卿女が忘れさられたことである。現代の社会では、百人一首を飾る女性歌人たちの名前と和歌は知っていても、この二人の残したあまたの名歌を知る人はいないし、その名前さえ知られていない。二人の才媛が「漏れているのは寂しくかつ由由しい」(塚本邦雄『王朝百首』一七頁)のである。 

他方で、以前に流刑の地、讃岐で憤死した讃岐院(後の崇徳院)の和歌は含まれていた。陽成院、河原左大臣、光孝天皇のグループも入っていた。そして「歌群」は「百人秀歌」と題された。これはすなわち、もし、『時代不同歌合』にならって日本和歌史の百人の名手を集め、百首の名歌を集めるのであれば、この通り、崇徳院や陽成院は大いに問題のある帝であったけれども許容の範囲内であるが、後鳥羽院とその一党はその限界を超えて堕落したのでこの一党は抜きで百人は埋まっているのであって、もはやこの者らの占める席はどこにもないのだという、後鳥羽院とその一党の歌道史からの永久追放を意味している。 

これは異常な状態である。定家は、承久の乱のさなか、取り組んでいた『後撰和歌集』の書写の奥書に「紅旗征戒非吾事(こうきせいじゅうわがことにあらず)」と書いた。定家は、自分は歌人であって、政治家でも武士でもないのだから、戦さは自分には関りがないとしているのである。この言葉はこの個所の記述により有名になり、定家が『明月記』を書き始めた時期の、源平争乱が激化した治承四年の記事の中に、「九月、世上乱逆追討雖満耳、不注之、紅旗征戎非吾事」とあるところから、すでに十九歳で定家は、政治、軍事から距離を置いて和歌の道に生きる決意を持った証しとされ、六十歳で迎えた承久の乱に際してもこの心であったと理解されていたが、辻彦三郎は詳細な研究の末に、『明月記』の治承四年の個所は、後世、寛喜二年、七十歳前後の定家自身による追記であるとした(辻彦三郎『藤原定家明月記の研究』吉川弘文館、昭和五十二年、九四頁)。定家は、立身を熱望する中級公家の右往左往ぶりを『明月記』の全巻に撒き散らしており、政治情勢にも敏感に反応していたのであって、政治の世界から超然として「紅旗征戒非吾事」が生涯に及ぶ定家のモットーであったと解するのは贔屓目(ひいきめ)が過ぎるのである。思うにこれは定家の遁辞、言い訳、負け惜しみである。この時期の定家は、親鎌倉幕府の公家であるので、北条義時討伐の謀議には、幕府に密告する恐れがあるので加えてもらえなかったのではなかろうか。それなのに、鎌倉幕府側からは、謀議を知っていたのに黙っていたと疑われ、立場の置き所に困っていたのではないだろうか。もし、本当に政治から超然とした歌人の立場に徹するのであれば、定家としては、後鳥羽院は政治的、軍事的には駄目な方であったかもしれないが、歌人としては立派であると言わねばならないところである。そうせずに後鳥羽院を歌人として全否定して、その作品も完全追放にしているのは、定家なりの政治的な判断であり、「吾が事に非ず」という言葉には違和感がある。百首と言う定員の固定枠を設けて、それを後鳥羽院の一党抜きの歌人で埋め尽くすことによって、定家は、私は、決して後鳥羽院とその一党の和歌を認めているのにそのことを伏せてあなた様に色紙をお贈りしているのではございませんという弁明をしている。その意味では百人と言う枠は絶対のものであるのであり、後鳥羽院の一党を除外した百人の枠を堅持することが歌人、定家の武士による新政権、鎌倉幕府への政治的な忠誠を示している。 

この辺は、定家は政治的な「大人の対応」をしており、頼綱もまた、事情を推察の上で「大人の対応」をしていると思われる。なお、ここで念のために記しておきたいが、宇都宮頼綱は、寛喜元年に本宅にお堂を作り、その障子絵のために定家と家隆が五首ずつの歌を贈った。『明月記』にはこうある「関東入道(頼綱)、本居に於いて作る所の堂(本居の所作堂?こう解するとお堂は新築とは限らない)の障子に大和(国)の名所を書き、予・前宮内卿(家隆)に歌を詠ましめ、色紙の形を押すべき由、宰相(爲家)に誂ふ。仍つて今朝腰折れ五首を書き送る。(葛木山・春、久米磐橋・春、多武峰・春、布瑠社・夏、初瀬山・夏。)前宮内卿、(吉野山・春、二上山・夏、三輪山・夏、龍田山・秋、春日山・秋、)秀歌多し。恥づべし。行能朝臣(世尊寺行能)書くべしと」(高野公彦『明月記を読む 定家の歌とともに 下』、一九八頁、江橋補筆)。つまり、定家と頼綱の間では、百人一首歌の色紙のやり取りよりも六年以前に、すでに和歌色紙の贈呈の先例があったのである。頼綱も、自宅の設(しつら)えに天下の歌人、定家と家隆に和歌をねだり、これまた天下の能筆家、世尊寺行能に書を求めるとは、結構な有力者ぶりであるが、六年後に再度和歌色紙を求めるとは無遠慮過ぎており、懐石料理を振舞われた茶席で亭主に「おかわり」を求める客のようで、純粋に歌人同士の交際としてはいささか諄(くど)過ぎる印象が残る。宇都宮歌壇を主催したほどの歌人、宇都宮頼綱がここまでしたとは思いにくく、ここにはむしろ定家の内心を確かめようとする政治的な駆け引きの臭いがする。なお、文芸史家の辻彦三郎は、この間の経緯を、六年前の依頼が定家に礼を失していたので、それを執拗に恨んで根に持っていた定家に詫びる趣旨で、全編の揮毫を定家一人に託したものと解している(辻彦三郎『藤原定家名月記の研究』、吉川弘文館、昭和五十二年、八頁)。私の考えとは異なるが碩学の言であり、留意したい。 

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