村井の書を読むと、『名月記』から見えてくる、定家の長男光家(みついえ)への冷遇、迫害と、後妻との間に生まれた為家(ためいえ)への溺愛が通奏低音のように流れている。よく家庭内のドメスティックバイオレンスの父親を見て育った子どもは長じて自分でも同じようなDVを繰り返すと言われるが、為家もまた父定家の示した実子の間でのえこひいき、偏愛を再現するかのように、家督は長子の爲氏(ためうじ)に残したものの、後妻の阿仏尼(あぶつに)とその子、三男の冷泉為相(ためすけ)を溺愛し、所領の一部とあまたの歌書、歌学書を、阿仏尼を経由して冷泉家を創家した為相に渡し、子孫間での紛争の種を蒔いてしまった。二條家を構えた爲氏と、冷泉家を創設した為相及びその母親の阿仏尼との争いは熾烈で、所領争いは鎌倉に下向しての訴訟にまでなった。その席で、冷泉家側が、家督を継いだはずの二條家に対して、「爲世(ためよ・爲氏の息)卿ニ文書傳ハルニ不ラズ口傳受ケルニ不ラズ」と、「家記」の『明月記』も、あまたの「歌書」「歌学書」「史資料」も相続しておらず、為家からの口伝も受けていないので、宗家である資格はないとまで罵倒した争いの根深さはすさまじいものである。 

そしてその後、南北朝の対立時に南朝方に付いた二條家は勢いを失い、室町時代には直系の血統を失い、傍流の家系の者が中心になるほどに零落したが、その後、三條西家、中院家、細川家などに支えられて盛り返し、朝廷に浸透することができた。その過程で二條流は「百人一首」を重要視して、定家の残した「歌群」、のちの名前では「小倉山荘色紙和歌」を工夫して、歌順も、歌人名もあり、後鳥羽院、順徳院の和歌も加えられた歌集『小倉百人一首』として世に出すとともに、「古今伝授」と並ぶ「百人一首伝授」を創設して天皇が自ら口述する「御所伝授」を秘儀化し、朝廷内外で指導権を確保して、今日の『百人一首』文化の基礎を作った。 

他方、爲家から歌道の資産を受け継いだ冷泉家は、南北朝の対立時には北朝方につき、その後も諸々の歌書、歌学書、諸資料を門外不出の聖典として秘蔵して伝えた。それは、あまたの乱世、戦乱、天変地異を潜り抜けて京都の冷泉家屋敷内の「時雨亭文庫」に保存され、明治維新時には御所の留守居を命じられたので東京移転に追従することなく、それによってその後の関東大震災、第二次大戦時の東京大空襲の焼失被害も免れて、今日、数多くの国宝を含む日本歌道史の最重要な史料群として伝わるとともに、冷泉家の歌道の宗家、家元としての信望の基礎となっている。そして、その中に、「百人秀歌」もあれば、「百人一首」もあったのである。 

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