「百人一首」の研究史は、二條流の系統に残された古い写本を基に進展し、室町時代の堯孝筆の百人一首本、三條西実隆のものを聖典のように崇めつつ、江戸時代の全期、明治時代、大正時代、昭和時代と展開されてきた。そして、第二次大戦後の昭和後期に、有吉保によって宮内庁書陵部蔵の『百人秀歌』が発見されたのであるが、その報告を受けてもなお、『百人秀歌』の流れをくむ歌人名表記、歌順、和歌本文の表記を踏襲している、冷泉家に伝わる異なった構成の『百人一首』の存在には気づかれず、したがって、冷泉流の表記を用いた本阿弥光悦の古活字本は、昭和四十年代の百人一首ブームの流行期を迎えてもなお、「歌仙の配列順序が、一般に伝承されたものと若干異なっている」(森暢(もりとおる)、吉田幸一『別冊太陽愛蔵版・百人一首』平凡社、昭和四十九年、一四八頁)と、あたかも筆者である光悦か出版者の錯誤であるかのように評価されるにとどまっていた。一方、「百人一首」のかるたでは、百首が切り離し自在のかるた札の形状であるので、冷泉流に作られたものでも、持主によって容易に二條流の歌順に順序付けられて整理される。昭和四十年代の当時には現存最古とされていた「道勝法親王筆小倉百人一首かるた」は、冷泉流に作られたものであったにもかかわらず、誤って二條流の歌順に配置され、記述の相違点も誤記があるとして紹介されていた(濱口博章、山口格太郎『日本のかるた』保育社カラーブックス、昭和四十八年)。三條院のかるた札の上の句札に、「三条院 心にもあらでこの世にながらへば」と明瞭に書かれているのに、そのことに一顧だにしないで、「心にもあらで憂き世にながらへば」と読解しているのは何とも奇妙であった。 

そして、昭和後期、具体的には昭和五十九年に、私は、東京都銀座でのかるたの展覧会を監修した機会に、「百人一首かるた」のカードに二系統があることを発見し、その後の研究で、江戸時代初期のかるた札では、三條院が「此の世に」で、崇徳院に繧繝縁(うんげんべり)の畳がないタイプのものと、三條院が「憂き世に」で、崇徳院に繧繝縁の畳があるタイプのものがあり、前者は冷泉流の「百人一首」の表記によるものであり、それが江戸時代前期の市井では主流になって普及しており、他方で後者は二條流の「百人一首」の表記を基にして、絵師の菱川師宣らによって強く主張されて、元禄期頃にはそれが広く受け入れられて、現行のスタイルの「百人一首かるた」のカードが広く普及するようになったことを突き止めた。当時私は、それを、江戸時代の初期、前期には、崇徳院に繧繝縁の畳がなく、皇族ではなく臣下の扱いであるかるた札が流通し、元禄年間に近い頃から、皇族に復帰して繧繝縁の畳に鎮座したかるた札に転換したと説明した。当時東京で開催していた「かるたをかたる会」の定例研究会などで多くの知人、友人に披露したので、かるたの歴史に興味のある愛好家の間ではある程度知られており、その一人に、毎回関西から出席していたこの会の会長の山口格太郎がいた。 

当時、昭和後期から平成初期の骨董、古書業界ではこのことが理解されていなかったので、江戸時代初期、前期の貴重なかるたの遺品を購入するのは私ひとりであった。そこで、その時代の貴重なかるたが無競争で容易に入手できた。その成果は概ね当時設立された「大牟田市立三池カルタ記念館」に提供したので、今日の同館の歌かるたコレクションの柱となっている。そして、その後、冷泉家の「時雨亭文庫」の資料の公開が進み、数本の『百人秀歌』や冷泉家の『百人一首』が発見、公表され、「百人一首」の発祥、「百人一首かるた」の発祥は基本的に見直される時を迎えている。 

初学者の私は、自分が行なったこの発見の意義が分からず、山口格太郎にイロハの「イ」から教えられて、発見直後に東洋文庫に通って初めて、現存最古の歌人像入りの刊本『角倉素庵筆百人一首』を見て、それが土佐派の絵師による挿画で装飾されていることを知り、江戸時代初期の社会で通用していた「百人一首歌かるた」のパターンが現存のものとは大きく異なることを知った。他方で、後水尾朝廷では二條流の『百人一首』が伝授され、江戸時代前期、元禄年間頃までに、江戸狩野派、菱川師宣らによる痛烈な土佐派批判により、社会的に現行の「百人一首かるた」に改まったことも知った。山口格太郎は、私の発見が歌かるた史研究の第一人者であった山口自身の誤謬をあらわにするものであることを十分に承知しつつも、初学者の私に丁寧に教示してくれた。東京や芦屋で親しく教えを乞い、大学にあった私の研究室を訪れた山口を、私は講義の時間なので退出して一人残して私のかるたコレクションを自由に検討してもらい、あるいは芦屋の滴粋美術館で未公表の資料類を見る機会を与えられ、芦屋駅に近い山口のひいきのフランス料理店で食事を共にしながら様々に議論を交わした思い出は今なお感謝とともに胸中にある。そして、私の発見については、平成年間になると、それが自分の新発見で、私がそれを模倣したとする乱気流が関西で生じて混乱した。ただ、そこでは、江戸時代初期の歌仙絵、歌人像画をめぐる土佐派と江戸狩野派の主導権争いという史実への理解が乏しく、二條流と冷泉流の併存という史実への理解も不十分で、全体として江戸時代初期、前期の文化史への不正確な理解が目立ち、かるた札などの蒐集史料の鑑定、評価では蒐集品の誇大評価が顕著で、まさに乱気流の様相であった。私は、法政大学出版局から出版した著書『ものと人間の文化史173 かるた』と、このサイトの論文「絢爛たる暗号?・百人一首発祥論著作の読書感想」を通じて私の研究の経緯と状況を整理して説明したので、今日では、すでにその乱気流は勢いを失っている。 

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