さて、私も、そろそろ自分の研究を閉める時期が近づいている。このほぼ半世紀の格闘を経て辿りついている私の歌かるた史研究の到達点を示しておこう。 

1)安土桃山時代、文禄、慶長年間に、北九州、細川家の居城内で、細川忠興の側室、「しうかく院」(秀岳院)によって、「古今の札」の遊戯、すなわち、古今集の和歌を二枚の札に分かち書きして、それを合わせ取る遊戯が考案された。この事実は細川家の文書史料に残されており、中村幸彦がそれを発見して紹介した。私は、山口格太郎の示唆のもと、これを学び、歌かるた発祥の認識を改めた。 

2)この遊戯は、京都の公家に嫁いだしうかく院の娘に伝えられ、京都で娘の周辺でも遊ばれるようになり、徐々に流行し始めた。これも細川家の文書史料中に記載されている。 

3)京都で、機敏な商人によってこの遊戯に使う札が売り出された。和歌を分かち書きしたものもあったし、白紙で売られていて、購入したものが自分で和歌を選んで書くものもあった。この最初期の、文字だけのかるた札は見たことがない。蒐集家の根拠のない自慢話でこの時期のものとされているかるた札は何回か見せられたがいずれも疑わしい。この時期のかるた札と学術的に確実に証明できる遺品はおよそ見たことがない。

4)慶長年間に、本阿弥光悦は、初めて「百人一首」を書いた刊本を出版した。歌人名と和歌の表記は冷泉流のものであった。この本は、光悦の書風をよく示していて人気があり、広く普及して、江戸時代初期の人々の「百人一首」のイメージの基本となった。 

5)元和、寛永年間に、角倉素庵は、自筆で和歌を書いた下部にその歌の作者の像を描いた刊本の「絵入百人一首」を始めて出版した。歌人名と和歌本文は二條流のものであり、歌人像は土佐派の絵師の作であった。人々は、初めて百人一首の歌人のイメージを得た。 

6)当初、京都での「百人一首歌合せかるた」の遊戯は、宮中や公家の屋敷内で遊ばれていたが、そのうちに京都の遊里に拡散して一般に遊ばれるようになった。この時期に宮中で使われたと思われる土佐派の細密画のかるた札の遺品には江戸時代前期の「諸卿寄合書かるた」があり、江戸時代の所蔵者は不明だが、明治時代以降、昭和後期には旧徳川将軍家に伝わっており、今は私の所有に帰している。歌人像は光悦本をモデルにして宮中の繪所の絵師であろうか、土佐派の細密画で描かれており、和歌の書は、二十名の公家が宴席で分かち書きしたのであろうか、各人の好みで冷泉流の表記のものもあれば二條流のものもある。公家が二條流に書いたのに主催者によって冷泉流に改められているものもある。このかるたは、このサイトのGALLERYのページにすべての札を掲出してある。一方、一般に流布した極初期の歌人像入の「百人一首歌合せかるた」は、伝道勝法親王筆で、現在、兵庫県芦屋市の滴粋美術館の所蔵となっている「道勝法親王筆百人一首」が著名である。道勝法親王筆が事実であればその死去した年が制作の下限になるが、古筆家の鑑定には疑問があり、これを江戸時代初期のものとするのは無理で、江戸時代前期のものと考えられる。なおこのかるたは、保育社カラーブックス『日本のかるた』(保育社、昭和四十八年)に上の句札百枚が掲出されている。

7)江戸時代前期の京都には、別種の「百人一首かるた」が現れた。それが「百人一首絵合せかるた」であり、上の句札と下の句札の双方に挿絵があり、二枚を実際に合わせると一枚の歌意図が完成する仕掛けになっていた。これの発祥は不明確であるが、二枚の絵のあるかるた札を合わせて取る「絵合せかるた」の一種で、貝覆いの遊戯に由来する系統のものであろうと思われる。現存品はほとんどなく、研究上の史料として活用可能なものは知られたものがなく、幻の状態であったが、近年一組が発見され、大牟田市立三池カルタ・歴史資料館の所蔵に帰した。「吉田家旧蔵百人一首絵合せかるた」である。このかるた札は名古屋市内の旧家の子孫に伝わったもので、持主の遺言により私に処分が任されたので、その希望を忖度して、私蔵に終わらせずに同館にあっせんした。これにより、貝覆い遊戯の系統から生まれた「百人一首かるた」の存在を、誰もが利用できる物品史料で立証できるようになったことはとても喜ばしい。なお、このかるたは、このサイトのGALLARYのページにすべての札を掲出してある。8)こうして、江戸時代前期の京都では、素庵本の歌人画像を模倣したのだが、和歌本文の記述は光悦本の冷泉流か、素庵本の二條流かに分かれる二種類の「百人一首歌かるた」が盛んに遊ばれた。この状況を一変させたのは、江戸狩野派による土佐派批判であり、江戸狩野派は新規に百人一首画像を創造して、将軍家や大名家の婚礼道具などとして納入して称賛され、歌仙画の世界での覇権を握ることができた。刊本の世界でこれに呼応したのは菱川師宣であり、土佐派の歌人像を激しく批判して独自の歌人像図を提案した。元禄年間になると、この革新がかるた屋の世界でも受け入れられ、新しい師宣風の和歌の表記と新しい歌人像の「百人一首かるた」が広く普及するようになった。これが今日まで伝わる「百人一首かるた」の意匠である。その反面、江戸時代初期に盛んであった冷泉流の「百人一首かるた」は徐々に背景に退き、江戸時代中期、享保年間頃までに姿を消した。 

9)なお、元禄年間頃の「百人一首かるた」札の大変革と関係するのがこのかるたの遊戯法の変化である。最初期の遊戯法は、下の句札を多数散らして配置し、中央のスペースに上の句札を一枚出して、一同が無音で静かに対応する下の句札を探すというものであったと推測される。そうすると、そこに、単に和歌の上の句の文字だけが書かれた札が出される時と、下部に歌人像がある派手やかな上の句札が出される時の印象の違いが想像できる。後者は「詠者近影」がついたようなものであり、圧倒的に華やかになる。そして、そうなってみると、歌合せの席での詠者本人のように上の句を歌い上げることになってもおかしくない。「百人一首かるた」の遊戯では、元禄年間頃までに、読み手が歌い上げる遊戯法が普及したが、そこでは、歌人一人一人の声色を真似るのではなく、すべての和歌を同じように歌う、宮中の歌合せの席のような読み方になったであろう。そして、次には、読んだ上の句札を下の句札の中央の空地にさらす手順を省略して、上の句札は読み手の手中にとどめ、遊戯のスピードアップが図られるようにもなったと思われる。現代まで続く遊戯法の確立である。 

10)ただ、そうすると、せっかくの歌人像を見るのは読み手一人で、取り手は文字だけの下の句札を睨んでいることになる。ここで注目されるのが、同志社大学の図書館に寄贈された数組の「百人一首かるた」である。これは、いずれも江戸時代中期以降のものであるが、下の句札に歌意図があってきわめて珍しい。私にとっても、このコレクションを見たのがこのタイプのかるた札の初見であり、いまだ他に例を見ていない。後世の研究者に研究の便宜を与えてくれた寄贈者に感謝している。このような挿画の細工が加えられたかるた札を用いて遊戯すれば、遊戯の場は花が咲いたように艶やかになり、「百人一首歌かるた」のあそびの優雅さは一段と増し、遊戯の場の雰囲気もいっそう優美に輝いたことであろう。 

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