一方、「百人一首」という歌集の成立については、私の感じた多くの謎は解明されていない。そこで、ある種、開き直って、この歌集が何であるのかの探求をいったん中止して、これが何でないかを考えてみた。次のように考えられる。 

1)まず、これは和歌史の全体を理解する概説的な歌集であるか。「百人一首」には、「萬葉集」に始まり、「古今集」以降の勅撰和歌集、「八代集」の各巻からの和歌が万遍なく収録されている。これを読めば、この時期までの日本の和歌史を一通り見たことになる。御子左家の書庫には、こうした歌集の写本は満ちていたのであるから、定家にはそれを作成することは可能であった。だが、定家による撰歌を辿ると各歌集の代表的な名歌を選んだとは思い難いし、定家には、後世に改作されているものについて、ある時は改作後の表記のものを採用し、ある時は改作以前の元歌の方を採録するなど一貫性を欠き、歴史を正確に編むという意図は感じられない。「百人一首」は和歌の歴史を示す歌集ではない。 

2)次に、この歌集はなぜ百人の歌人なのか。百人と言う数は、「百人一首」が日本和歌史上の代表的な歌集と考えられるようになって人口に膾炙(かいしゃ)したのちにはごく当たり前に考えられるが、「百選」のような発想はむしろ後代のものであり、百人の歌人、百首の和歌、百と言う数を区切りが良いと考えるのは、むしろ「百人一首」の影響と考えられる。これ以前から「百首歌」と言う観念があったことはすでに見たところであるが、それは一人の歌人が百首の和歌を詠んで編むというものであり、百歌仙と言う考え方とは相当に距離が離れている。それはさておき、定家が和歌の名手を百人選んだとは思いにくい。常識的に考えて当然に入選されるべき人が多く抜け落ちており、逆に、評価の定まらなかった凡歌の作者が入っており、中にはここに採録されて初めて和歌史に名前が浮上した無名の歌人さえある。「百人一首」は百人のベストメンバーの和歌集ではないし、和歌史上の代表的な名歌の詞華集、アンソロジーでもない。 

3)「百人一首」は、標準的な和歌集のように、和歌をテーマ別に集めたものではない。そこには標準的な和歌集に見られる「春の部」、「夏の部」、「恋の部」、「旅の部」と言うような編成もない。あるのは、おおざっぱな年代順の整理であり、それも、冷泉流と二條流で二通りの異なった順序があって、慎重に年代順を考えて選んだとも思えない。これを、冷泉流のもののほうが定家の作成したオリジナルな「歌群」に近く、二條流のものは、室町時代中期にこの歌集を再発見した際に加工に失敗した痕跡であると理解できないことはないが、いずれにせよ、極おおざっぱな編成の仕方であり、歌集の在り方としては違和感が残る。『百人一首』は主題を展開する歌集ではない。 

4)ここでもう一つ、致命的な指摘をしておきたい。現在、定家が生前に『百人一首』という歌集を編んだことを証明する史料はほとんど存在しない。わずかに、定家様の筆跡の「小倉色紙」に、『百人秀歌』にない後鳥羽院の和歌を書いたものがあるので、これをもって、定家の生前に『百人秀歌』だけではなく、『百人一首』も存在していて、定家自身がそこに収録した和歌を色紙に書いた証しとされているのであるが、これ以外には何もないのである。残念なことに、もしこの後鳥羽院和歌色紙が定家の真筆であるとしても、そのことから、定家が百首の和歌を一番目からことごとく色紙にしてついに百番目に及んだということは証明されない。染筆の趣意は闇の中である。そしてそもそも、「小倉色紙」には様々な問題があって、後世、茶席の設(しつら)えとしての異常な需要が生じて、市中に高額で出回り、多くの偽物も登場した。後鳥羽院の史話の人気からして、この色紙が特に高額で取引されたであろうことは想像できるし、それだけ丁寧に、念入りに創作されたであろうことも想像できる。こういういわくのある「小倉色紙」一枚をもって『百人一首』の歌集としての成立を証明するのは、その真贋を検討の外に置いたにしても、それでもなおいかにも心細い。一方、江戸時代以降、現代にいたるまで、『百人一首』の定家筆の原本は発見されず、残されているのは室町時代中期以降の写本であり、原本は未発見、あるいは紛失されたものと説明されてきた。 

私の疑問はごく単純で、『百人一首』の原本は紛失されたのではなく、そもそも存在しなかったのではないか、そして、室町時代中期にこの歌集を「発見」して筆写した者は、実際にはそれを自分で編んだのだが、そう告白しないで、原本は存在していたが紛失されて写本のみが残り、自分は更にそれを写したという架空の伝承史を創作したのではないか、ということである。すでに繰り返し指摘してきたように、御子左家の一子相伝の「家歌記」、歌道の秘儀を教える際の教材であれば、歌集という整った形にする必要性はなく、口述する際の便宜に応じてあれこれと変化、改良を加えやすいように、むしろ歌集としての完成形でない方が都合いいのである。「百人一首伝授」という最重要な継承行事が伝承されているのに、そこで使う『百人一首』という基本資料が伝承されていないというのはいかにも奇妙である。 

私は、『百人一首』は何物であるかではなく何物でないかを検討してきた。それがそもそも定家によって完成された歌集としては成立していなかったという判断をしているが、これは、素人の判断ではあるが最も致命的な「ない」であろう。 

一体、これはどういうことであろうか。定家の選んだ「歌群」は、王朝和歌史のダイジェスト版ではない。王朝の優れた歌人百人の顔見世でもない。王朝の和歌の名歌中の名歌をえりすぐった名歌集でもない。「歌群」には明確な主題別の編成もない。そもそも、定家による歌集としての成立そのものが証明されていない。これはいったいどういうことであるのか。 

『百人一首』は、それがどういう歌集であるのかという問いに答えることは困難であるが、どういう歌集ではないかという問いには容易に答えが見えてくる。そしてそうした答えを積み重ねてみると、そこに全く別の姿が見えてくる。これをまず結論的にいえば、これまでさまざまに検討してきたように、「百人一首」は「歌集」と言うよりも御子左家の「家歌書」、つまり「歌の家」「歌家」の奥義を伝える教材の「歌群」ではないのか、と言うものである。私は、「百人一首」は何出ないかを検討してきた。それがそもそも存在していないというのは、最も致命的な「ない」である。 

ここで、定家による、「百人一首伝授」の様子を想像してみたい。定家の眼前には為家一人が座り、余人は皆遠ざけられている。公家の家らしく、定家は、「歌群」を示しつつ、まず、和歌と皇室との関わり方を口述したであろう。それは大きく二点に分かれる。第一は、後鳥羽院、順徳院とその関係者の扱いである。後鳥羽院は、承久の乱で敗北して、乱の首謀者であったのに、北条義時討伐の試みは臣下の勝手な振舞であって自分はあずかり知らないとみっともない弁解をして免罪を乞い、死罪あるいは病死を装う毒殺を免れて流罪に処せられたのであり、生前の京都帰還は許されず、歿後も不名誉な扱いを受けたのであって、そこに一片の敬意も憐憫も示してはならないのが、もともと後鳥羽院の寵愛を受けていた御子左家の公家社会での生き残りの基本であった。定家は、後鳥羽院、順徳院親子の無視に加えて、後鳥羽院朝の女房、俊成卿女や宮内卿に至るまで、関係の深い歌人たちを黙殺するべきことを教えたのであろう。なお、為家は順徳天皇に気に入られて寵愛を受けており、佐渡への配流の際にも同行を求められたがそれを辞退して京都に残り、親鎌倉幕府の朝廷で活躍して勅撰和歌集の選者に選ばれており、御子左家の親鎌倉幕府という政治スタンスは確かに受け継がれていた。 

もう一点は、王朝の歴史の中で問題のあった天皇たちの扱いである。崇徳院は優れた歌人であり、崇徳歌壇の中心であったが、保元の乱で敗北して讃岐に流され、京都への帰還を願って果たせず、怨念を抱いて寂しく流刑地で没した天皇である。京都にいた頃には「新院」と呼ばれていたが、讃岐に流された後は廃帝であって院号も与えられずに「讃岐院」という通称で呼ばれていた。崇徳院の生涯を語る定家の教えは、当然だが、いかに和歌の道に優れた帝であっても接触には十分に注意せよというものであったことだろう。 

陽成院は若くして即位したのだがその素行に問題がありすぎて、殺人の風評もあり、神経を病んで廃帝、譲位を強制され、息子に跡を継がせることもできずに追放され、和歌にも造詣が深かったはずなのに自作の歌がすべて抹消され、消し損ねた「筑波嶺の峯より落つるみなの川 戀ぞつもりて淵となりける」一首だけが残されている。そして、陽成天皇追放後に皇位を望んだのが河原左大臣、源融(みなもとのとおる)であるが野望は果たせず、代わって棚ぼた式に皇位を得たのが既に五十五歳と高齢であった光孝天皇であった。在位期間も短く、後継者を選ぶこともできなかった恵まれない天皇であった。それ故に、定家が「百人一首」中で、陽成院、河原左大臣、光孝天皇と並べたことには、皇位をめぐる妖雲をそのまま登載したような異様な印象が生じる。これは和歌の口伝、歌学の伝授のための教材の編集の姿勢としては異常である。繰り返し説明してきたように、「百人一首」は御子左家の秘伝であり、定家が息子の爲家に歌道の奥義を口述で伝える際の教材であったと思われる。後世、二條流の血筋で唱えられた同家に伝わる「百人一首伝授」の伝説が、まったくの後世の偽作、創造物ではなく、内容は途絶して理解できなくなっているが、定家が一子相伝の秘伝の口述を為家に行い、その後二條家に伝承していた史実は確かなものであるとするならば、その失われた秘伝とは何だったのだろうか。定家は、陽成院、河原左大臣、光孝天皇と言う、歌人としての評価が必ずしも高くなかった人たちを並べて、何を教えようとしていたのだろうか。定家は、当然、この並びの説明では、妖雲が漂ったと言われる時期の皇室の異変に触れ、公家としては皇室との細心、慎重な関係の確保を説き、歌学の人としては、これらの歌人の和歌を鑑賞、解説する際にこういう背景事実にも気を配るよう説いたのであろう。そのためであれば、陽成天皇、源融、光孝天皇と直截に事変関係者の歌を並べた不気味に暗い編集の意図も理解できる。 

残るのは三條院と崇徳院である。崇徳院についてはすでに述べた。三條院は即位時三十六歳、在位五年で病を得て退位し、眼病で失明したうえで病を得て死去した。いずれも悲運の天皇である。こうして見ると、「百人一首」に収められた天皇は、神のような天智天皇、持統天皇は別にして、収録された平安朝以降の天皇は、いずれも悲運の帝であり、宮廷歌人の家としては、取扱注意の者である。こういう天皇を選んでいる定家には、「伝授」の口伝を通じて、歌人としての天皇についてだけでなく、皇室の怪しげな歴史をリアルに伝え、そこに仕える際の心構えについても教示するとともに、これらの問題のある帝の和歌の解釈に際しての特別の留意点も示しているであろう。こういう面で取り扱いに注意が必要な天皇を選んでいるように思えてならない。歌人としてはもっと優れた実績を残している天皇もほかに多いのに、そこを外してこれらの悲運の帝たちを取り上げた趣旨はこの辺にあったのではないかと思うのである。 

次に、この「歌群」を見ていると、皇室への忖度の他に、なお二点の忖度、配慮が感じられる。一つは、公家社会内部のことで、定家は主筋に当たる九條家に縁の深い人々を多く取り上げている。定家は生涯九條家の家司(けいし)を務めたのであり、この主筋の力添えがあってこそ初めて御子左家は公家社会の中で栄達が可能であったのであるから、そこを忖度して重視するのは当たり前であろう。そしてさらに、定家は、親鎌倉幕府の公家らしく、鎌倉武士の歌人、和歌も積極的に採用している。鎌倉の右大臣、源実朝はその代表であろう。ここにも定家の自分の立ち位置からする権力者への追従、忖度がある。 

堀田善衛は、元久二年に、定家が、当時京都で厳格な守秘の下で編纂の作業が進行していた『新古今和歌集』の草案の内容について、弟子の鎌倉武士内藤朝親を介して源実朝に漏洩した疑惑を指摘している(堀田善衛『定家明月記私抄』新潮社、昭和六十一年、二一五頁)。この年、実朝はまだ弱冠十四歳であり、征夷大将軍といえども、京都の宮中に秘蔵されている勅撰和歌集の改訂中の未完成草稿を無法に閲覧しようと強引に求めたとは思い難い。これはむしろ定家の側からの過剰なサービスであったのであろう。だが、こうした行為は、自ら先頭に立って歌集の切継ぎを行っている後鳥羽院への極めて深刻な裏切り行為であるが、『明月記』では一切言及されていない「秘事」であり、『吾妻鏡』の記述から始めて暴露されている。堀田はここで、定家嫌いの折口信夫が書いた「此流の者は、皇族を大檀那とする事によつて歌道の正統なる事を示し、中央、地方の武家階級の信用を固めて、私福を獲ようとするまでになつた。定家が既にさうであり、其子、孫皆、其方便に従うた」という言葉を引用し、さらに、「かかる私事あるいは秘事を書き記さない定家という人間をもしかと認識しておかなければならないであろう」と定家に冷ややかに記述している(堀田善衛『定家明月記私抄』、新潮社、昭和六十一年、二一六頁)。実際に、この頃、皇族や公家の所有する荘園での収益を誰が取得するのかは朝廷と幕府の間での大きな紛争の種であり、定家は、幕府の要人との人脈を活かして、御子左家の荘園での収益を現地で管理している武士たちが横領する悪習を防止して、家計の好転を果たしている。権力者への忖度は定家に実益、折口の言う「私福」を生んでいたのであり、折口、堀田の酷評は当たっている。 

こうしてみれば、問題なのは「百人一首伝授」の中身、口伝の内容である。百首の和歌は、観賞するべき名歌ではなく、改善の余地のある素材である。定家は、為家に口述で伝授する機会ごとに、そこで取り上げた個々の和歌について、歌と作者に関して社交辞令を排除したリアルな解説を述べるとともに、本歌取、縁語、懸詞、枕詞などなどの作歌の技巧も教示して、その和歌を「直してみよ」と迫ったであろうと思われる。そして爲家の改作が意に添うたならば、良く気付いたと褒めたであろうし、意に添わないときは、それは違う、先日教えたところを忘却したか、と厳しい叱責が飛んだことであろう。 

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