こうして、私は、和歌の道に暗い素人であるが、私なりの一応の理解にたどり着いた。そこでは、まず、昭和末期に、歌人名や和歌本文の表記も歌人像の画像も異なる二種類の「百人一首歌かるた」の蒐集とその歴史研究から見えてきた、「百人秀歌」とは別に、「百人一首」には冷泉流と二條流の二流があるという発見がある。これは、その後、「時雨亭文庫」の公開が進むなどの研究条件の改善によって、数本の『百人秀歌』が発見されたことで裏付けられて、今では否定しがたい指摘になっていると思う。 

『新撰小倉百人一首』(塚本邦雄)
『新撰小倉百人一首』(塚本邦雄)

次に、私は、「百人一首」の先行研究との接触を繰り返した中で感じた、この「歌集」は不完全であるという感想を放棄することなく、様々な論点からの検討を重ねて、それが「歌集」としては不可解のものであり、未完成な「歌群」であるという認識に達した。ここで最も私の発想を刺激されたのは塚本邦雄の仕事である。塚本は、「百人一首」を完成した「歌集」と前提したうえで、それがいかに不満足な、不本意な「歌集」であるかを批判して、「私自身の目で八代集、六家集、歌仙集、諸家集、あるいは歌合集を隈(くま)なく經(へ)巡(めぐ)つて、それぞれの歌人の最高作と思はれるものを選び直し、これを百首に再選して『王朝百首』と名づけてみた」(塚本邦雄『王朝百首』講談社文芸文庫、平成二十一年、一九頁)と述べるように、歌人の選抜からやり直した「歌集」を構想した。そして、次に果たしたのが、「『王朝百首』に先立つ時代の作、これに續く近世の詞華の發掘と顯彰」(塚本邦雄『珠玉百歌仙』講談社文芸文庫、平成二十七年、一五頁)であり、それは、日本の和歌史を縦断する齊明天皇から始まって森鷗外に及ぶ『珠玉百歌仙』に結実した。これは、「百人一首」が示す和歌史観へのあからさまな挑戦である。さらに塚本は、今度は「百人一首」の歌人百人の和歌を各個人ごとに全面的に再検討して、各人の代表歌を数首選び出して、その中から最も代表的な歌一首を切り出す作業を進め、定家の枠組みの中での選歌の優劣を定家編の「百人一首」と競った。「ともあれ、百首、撰の不當と缺陷を論じてゐるだけでは不毛であらう。そしてまた假に百首が必ずしも凡作ではないとしたところで、その一人一人に、他に、これこそ代表作、一代の絶唱と目(もく)すべき歌が、現に殆どある。例外は「沖の石の讃岐」くらゐだらう。また、百人一首歌以外にその作の傳はらぬ安倍仲麿と陽成院は、選擇の餘地がない。それを考慮に入れ、その制限にやむなく從つて、この度私は、九十八人の、これこそかけがへのない一首を撰び上げた」(塚本邦雄『新撰小倉百人一首』講談社文芸文庫、平成二十八年、一九頁)ということである。「百人一首」を歌集と見た場合、それの最も徹底した解読、評価、批判はこの塚本の仕事に尽きると思う。だが、塚本は真正直すぎる。ひねくれ者の私には、これだけの塚本の業績に接してもなお、「百人一首」は「歌集」というより教材の「歌群」ではないかと言う疑念は消えないのである。

ここで大きく振り返れば、定家は、承久二年に後鳥羽院の勅勘を受け、翌承久三年に承久の乱が起きた頃には写本に集中しており、その後も写経、写本を繰り返した。身近な人々の相次ぐ逝去に加えて、承久の乱で敗北して処刑された多くの公家や旧知の人々への鎮魂の思いもあったのであろう。この活動は寛喜年間まで十年、定家の年齢で言えば六十歳から七十歳の十年間続き、膨大な量の成果が生まれた。この情報群を保有することが、歌道の本家、家元の権威の証しであり、定家は、あまたの和歌集にとどまることなく、作中に物語歌を含む『源氏物語』などの物語の写本にも熱心であり、その成果である「時雨亭文庫」は、八百年後の今日に至ってもなお、冷泉家の権威を支えるとともに、王朝文化の時代の文芸史をあらわにする日本国内最良の史料群となっている。 

だが、その一方で、作歌は低調であった。定家は「〈詠む人〉から〈写す人〉に変貌していった」(高野公彦『明月記を読む 定家の歌とともに 下』、一八六頁)のである。そして、定家七十一歳の貞永元年に後堀河天皇から『新勅撰和歌集』の撰進を下命されて果たしつつあったが、同年に後堀河院の中宮、藻壁門院が死産で母子ともに死亡し、定家は出家して「明静」と名乗り、翌年の天福二年に堀河院本人も死去するという大事続出の中、作成中の和歌集の草稿を焼き捨ててしまった。これが七十三歳の時である。定家はその翌年、七十四歳の年に『百人秀歌』を選んだとされているが、こういう経過を見ると、この時期の定家に、歌人としての制作欲、和歌の美を極める「歌集」、名歌撰を編もうという意欲が残されていたとは思えない。私には、晩年の定家としては、今なお蹴鞠の遊戯を好んで熱中する息子の為家に心を痛め、何とか歌道の本家、家元としての体面が維持できるように秘伝を伝えようする老いたる父親の姿しか見えてこない。 

『百人一首』は定家によって着想され、その子為家らによって完成された「歌集」であるという前提を排除して、歌道の本家に伝わるべき教材の「歌群」であると考えると、不自然な歌人の選択、奇妙な歌順、凡歌の集積、表記の基準の不統一、後鳥羽院、順徳院の和歌の出し入れなど、この「歌群」にまつわる「歌集」としての不備の多くは、そもそも「歌集」を目標に編まれてはいないのだから解決のしようがないという点に落ち着く。私の到達点は「幽霊の正体見たり枯れ尾花」であった。そして、本来は不即不離で一体化していたはずの定家の口伝、一子相伝の秘儀が失われてしまった以上、この百首の和歌教材の活用の仕方は分かりようもない。ただ、揣摩臆測(しまおくそく)の種になるだけである。もし、室町時代中期に、二條流の流れの人々が、宗家復興のために『百人一首』と言う歌集を発掘して加工の上で公表しなければ、そこに、「百人一首伝授」と言う儀式を復興して、代々が免許を付与し続ける本家、家元の地位を構築しなければ、あるいは三條西家、中院家、細川家などによって宮中に持ち込まれ、天皇自身が「御所伝授」を行うという権威付けに活用されなければ、そしてもう一つ、もし「かるた」という遊技が海外から伝来していなければ、この「歌群」は、もっと穏やかな歴史を刻み続けることができたであろう。正岡子規も、折口信夫も、塚本邦雄も、もっと穏やかにこれに接することができたであろう。 

村井康彦は、『藤原定家「明月記」の世界』をこの文章で閉じている。「最晩年の『明月記』には「金吾」(為家)の文字ばかりが目につき、為家が来宅――時には一日に二度も――するのを何よりも楽しみにしている様子が窺われる。為家が来ないと「世事聞かず」とぼやく日々であった」。これで一冊の挑戦的な書物の著述が終わっている。このなんともぶっきらぼうなエンドロールを私風に脚色するとこうなる。「最晩年の定家は、山荘の居室に貼り巡らした自筆の和歌色紙を眺め、過ぎ去った年月を思い、多くの歌人との競争と交流の日々を思い、後鳥羽院との格闘の日々を思い、一つ道を誤れば御子左家の廃絶になった承久の乱を何とかしのぎ切った経緯を思い、そして、この乱の後に、親幕府の新皇室のために後鳥羽院とその一党を削除した和歌の道を創出し、御子左家にそうした歌道の本家、家元の地位を残し、爲家にその地位を維持し得る秘儀を口述で伝授しえたことを思い、中級の公家の家を守り抜いた満足感、そうした自分を褒めながらまどろむ日々であった」。 

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