⑥の史料は、平成十四年(1992)に三池カルタ記念館で購入を検討したことのある初期の「三池カルタ」の版木で、結局、価格面で折り合いが付かずに購入をあきらめたが、その過程で実物を手にして調査することができた。その際の記録を元に説明すると、これは版木八枚、合計カード三十二枚分のものを用いた硯箱で、元来は、残りの版木四枚を用いたもう一段の箱がある重ね箱であったと思われた。
上蓋にはカード四枚を縦長に彫り込んだ版木が四枚並べて用いられていた。左から右へ、上から下へ、「イス」の「ソウタ」「ドラゴン」「キリ」「ウマ」の版木、「イス」の「九」「八」「七」「六」の版木、「ハウ」の「ソウタ」「ドラゴン」「キリ」「ウマ」の版木、「イス」の「五」「四」「三」「二」の版木である。
底箱の四周には同様の版木が用いられていた。長方形の箱の側面には「コップ」の「二」「三」「四」「五」の版木と、「コップ」の「六」「七」「八」「九」の版木、上下の面には「オウル」の「二」「三」「四」「五」の版木と、「オウル」の「六」「七」「八」「九」の版木である。但し、寸法を合わせるために「オウル」の「六」と「オウル」の「二」は切り取られていた。このほかに失われたもう一組の底箱には「コップ」の「ソウタ」「ドラゴン」「キリ」「ウマ」の版木、「オウル」の「ソウタ」「ドラゴン」「キリ」「ウマ」の版木、「ハウ」の「九」「八」「七」「六」の版木、「ハウ」の「五」「四」「三」「二」があったと思われる。
版木に彫られたカード一枚の大きさは、縦七・四センチ、横四・一センチである。これは、「カルタ版木重箱」のカルタの大きさ(縦六・三センチ、横三・四センチ)と比べて十五%程度大型でやや縦長であるが、①「南蛮文化館」蔵の手描き天正カルタとほぼ同じ大きさである。また、版木はカード四枚分を縦に並べて彫っているので、これが初期の天正カルタの版木の形であると判断された。
これに加えて、版木からはもう一つ重要な情報が得られた。絵札の版木では「ソウタ」「ドラゴン」「キリ」「ウマ」の順で彫られているが、これはトリック・テイキング・ゲームの遊技法でのカードの強弱を正確に反映している。また、数札では「イス」では「九」「八」「七」「六」の順の版木と「五」「四」「三」「二」の順の版木であるが、「コップ」と「オウル」では「二」「三」「四」「五」の順の版木と、「六」「七」「八」「九」の順の版木である。「ハウ」の数札の版木は失われているが「イス」と同じ順序と考えられる。これもカードの強弱の順に彫られたとすると長い紋標の「ハウ」と「イス」では「九」が」強く「八」「七」‥‥「三」「二」と」なり、円い紋標の「コップ」と「オウル」では「二」が強く「三」「四」‥‥「八」「九」となる。このように長い紋標と円い紋標で数札の強弱が逆転するのは、従来は一組七十五枚のうんすんカルタに固有の遊技法と思われていた。それが百年近くも古い初期の天正カルタを使う「合セ」の遊技法でも同様であったと推測させられたのだから驚くべき新発見であった。この発見により、トリック・テイキング・ゲームである「合セ」の遊技法が後世のうんすんカルタの遊技法に継承されていたであろうという推測がさらに明確になった。
カルタの図像を見ると、描線は太く力強くて、実際にカルタを多数摺り出した実用性の高さが感じられる。そして、このカルタは伝来した南蛮カルタより一回り小さく作られているが、その際に図像を縮小するのではなく、「縁返し(へりかえし)」で裏紙の枠に隠れている部分を切り落として小さくする不思議な方法が採られている。その事情をもっとも明白に示すのが「オウル」の紋標が削られて円形ではなくなっている点である。「オウル」紋標は、世界中どこの国のカルタでも円く描いており、日本でも手描きの天正カルタやうんすんカルタ、さらに賭博系のカルタでも同様に円く表現されている。「オウル」の縁の部分を図像の端に来る上下ないし左右のどこかを欠落させたのは木版の天正カルタだけの極めて珍しい特徴であるが、このカルタでそれがすでに出現していることは重要な事実である。
この、オウル紋標の切り落としをどう理解すれば良いのか。紋標のオウルを従来、私は通説通りに貨幣としていたが、『ものと人間の文化史173 かるた』への友人の書評(私信)で、言語としては金貨と訳すべきだと指摘され、このウェブサイトではそのように改めた。そうしてみると、江戸時代初期(1603~52)の日本社会では、「寛永通宝」などの銅貨は円形だが、金貨は小判型であって、円形の金貨はないところ、オウル紋の紋標の金貨の左右を同時に切り落とすと小判型になるのであるから、この奇妙な改変は日本の金貨の事情に合わせたものだという新説になる。しかし残念なことに実際はそうではない。オウル紋の切り落としは、上下のどちらか、左右のどちらか、場合によっては上下のどちらか及び左右のどちらかの同時の切り落としである。小判型への変形という新説は成り立たない。但し、金貨の一部を削り取るという金貨本位の国ではありえない図像の変更を加えた背景に、日本の金貨は小判型であって円形ではない、円形の通貨はむしろ小銭の銅貨を思わせてしまうという事情があったようには考えられる。江戸時代の日本では、上方で通用していた銀貨も切り分けて使うことがあった。通貨を切り分けるという日本文化からすると、オウル紋の縁を切り捨てた図像は、江戸時代初期(1603~52)の人々にとっては、現代人の私などが感じるほどの違和感がなかったのかもしれない。
なお、紋標「ハウ」の棍棒の図像では切り口から新芽が芽生えて花が咲いている。これはヨーロッパのフロレス・カードでも、アントワープのドラゴン・カードでも同様である。そして、これを受けて紋標「ハウ」の「一」のカードで龍が咥えている棍棒にも花が咲いている。これを「火焔龍」と区別して「蝙蝠龍」と呼ぶことができる。「火焔龍」と「蝙蝠龍」の関係については後に触れる。