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(二)「賀留多」第一文節、カルタ札の制作地、制作者、発祥

第一の文節、「賀留多 六條坊門製之、其良者稱三池、以金銀箔飾之者謂箔賀留多、是於繪草子屋造之、元阿蘭陀人玩之、長崎港土人倣之為戯。」である。『雍州府志』は京都の地誌であるので、まず、カルタの制作地が六條坊門(五條橋通)であることを述べ、一般のカルタのほかに、質の高い「三池カルタ」や金箔、銀箔を使う豪華な「箔カルタ」について語り、次に、カルタの発祥を手短に述べている。

まず、項目の名称「賀留多」である。同書を含めてこの時代の文献史料ではカルタが「加留多」ないし「賀留多」と表記される。「加」は清音の「か」と読まれるが、「賀」は清音「か」と濁音「が」の両用の文字であり、同書の「賀留多」という表記は「がるた」と読むこともできるが素直にかるたと読まれたものと理解したい。また、同書の文中に登場する「箔賀留多」や「歌賀留多」などの場合は連濁して「はくがるた」、「うたがるた」なのか、連濁しなくて「はくかるた」、「うたかるた」なのかは明らかでない。なお、同書より四十年ほど早く、正保二年(1645)刊、松江重頼著の俳諧論書『毛吹草』[1]は「歌賀留多」に「ウタカルタ」という振り仮名を付けていて参考になる。

ほてい屋の店先
ほてい屋の店先(『京雀跡追』、延宝六年)

次に問題になるのは、カルタの制作地である。黒川道祐は、当時京都市内に二か所あったカルタの生産地のうち、六條坊門(五條橋通)の何軒かの絵草子屋が制作していた木版刷りのカルタについて紹介した。ところが、『毛吹草』では、「諸国古今の名物」の項に、山城の名産として「坊門賀留多(カルタ) 麁相物(そそうもの)也」「烏丸(カラスマルニ)‥‥金賀留多(キンカルタ) 歌賀留多(ウタカルタ)」とある。『雍州府志』刊行の四十年以前にすでに二條烏丸にカルタの制作店が存在していたのであり、これは同書刊行後、元禄年間(1688~1704)以降の文献史料でも確認できるところであるので、同書刊行の貞享三年(1686)にはこの地で制作、販売を行っていたものと推定される。黒川が京都の産物としてのカルタ札の制作を紹介する際に、なぜこれを書き漏らしたのか、その主旨は分からない。

嘉留多師
嘉留多師
(『人倫訓蒙図彙五』、元禄三年)

ただし、『雍州府志』の巻七、「絵草子」の項には、二條烏丸の北に絵草子屋があり、そこで、紙をもって小偶人夫婦の形、その外、大人、小児の形を作り雛(ヒイナ)と呼んで制作しており、「この外、色紙短冊等の物、多くはこの家においてこれを造る」と書いてある。書き方からすると何軒もの店があったのではなく、一軒限りの制作、販売であったように思われるが確証はない。これを他の文献史料と照合してみると、元禄三年(1690)刊の 『人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)』 [2]巻五「嘉留多師(かるたし)」には「かるたは阿蘭陀人(おらんだじん)の翫(もてあそぶ)也。一種(しゆ)各(をのをの)十二枚(まい)あつてこつふ・わうるはういすの四種(しゆ)あつて合四十八枚(まい)なり。又哥(うた)かるた、詩(し)かるたあり。哥かるた寺町通二條の上ひいなやにあり。四十八枚は五條通におほし。大坂(さか)久太良(きうたら)町にあり。彩色(さいしき)外(ほか)に出してもこれをつくる也」とあり、元禄五年(1692)刊の『諸国萬買物調方記』[3]には「うたかるた」の制作地の一つとして「同 からす丸 よひしや」とある。「よひしや」は雛人形屋の店名である。時期が遡るが、延宝六年(1678)刊の『京雀跡追』[4]には、「よひしや」は烏丸通少将井町の「はりこ、はりばこ、ひゐな」を扱う店とある。『雍州府志』には「色紙短冊等の物」としか書いていないが、同地の「賀留多」はこの絵草子屋から雛屋に転じた「よひしや」の副業として制作されていたようである。文献史料では他に二條寺町にも「歌かるた」を商う雛人形屋があったように見えるが、詳細は明らかでない。黒川は「よひしや」の「歌かるた」を同店の「色紙短冊等の物」に含めて記述したつもりだったのであろうか。

賀留多屋
賀留多屋(『彩画職人部類』、明和七年)

想像をたくましくすれば、黒川道祐は数年以前に二條烏丸(あるいは二條寺町)の「よひしや」を訪れて、店頭に絵草子本、紙雛、色紙、短冊等が並ぶのを見てそれを記録したが、その際に、白無地の色紙のほかに和歌一首の上の句や下の句を書いた正方形に近い小色紙型の「歌賀留多」も並べてあったのに、その形状からそれを単なる小色紙と見て「歌かるた」の札であると認識することがなく見過ごしていたのではなかろうか。あるいは、その時期にたまたま品薄で店頭に展示してなかったのであろうか、それとも、「歌賀留多」が上流階級からの注文生産品で店頭に見本を出すことはなかったのかであったのかもしれない。江戸時代初期の京都では、小色紙と言えば縦が十三センチ強、横が十三センチ弱の「寸松庵色紙」のサイズが好まれて流行していたので、「歌賀留多」はこのサイズであった可能性があるが、「カルタほどの大きさ」とする文献史料もある。この時期に伝来した南蛮カルタは縦が十センチ程度の長方形であったから、その程度の大きさだとすると寸松庵色紙よりももう一回り小さく、縦横ともに十センチ程度の小色紙であった可能性もある。黒川は、数年後に六條坊門(五條橋通)沿いのカルタ屋を調査して、海外から伝来したカルタの札と、同じく長方形のカルタの札を転用した木版の「歌かるた」を目にして記録し、そのことを『雍州府志』を執筆したのであるが、執筆時に、遠い昔に取材した 二條烏丸の絵草子屋兼雛屋の店頭にあった正方形の手描きのカルタや小色紙型の「歌かるた」にまでは記憶が届かなかったのではないか、と考えられる。六條坊門の木版の「歌かるた」は、二條烏丸の小色紙形のものより一回り小型であり、かたちも正方形でなく長方形であったので、二條烏丸のものがこれと同類の「歌かるた」であるという認識に至らなかったのではないかと思う。

だがこの想像は、「歌かるた」の札以外には黒川の記述を裏付ける現物史料も文献史料も見つかっていない中で、その執筆の有様を勝手に忖度しているのであり、ほとんどフィクションに近いことを私なりに自覚している。当っていなければ黒川先生ごめんなさい、である。

次に問題なのは、「三池」と「箔賀留多」である。『毛吹草』は坊門のカルタを「麁相物(そそうもの)也」と切り捨てているが、『雍州府志』は、同地で制作するカルタには質の良いものもあり、それを「三池」と呼ぶと紹介している。ここでの問題は、表記がなぜ「三池賀留多」ではなく「三池」なのかである。「三池」だけでは、「カルタ」と別に「三池カルタ」というランクの高い別種のカルタ札があったのか、それとも例えば「三池筑後屋友貞」のような筑後、三池村に発祥する京都のカルタ屋の評判が高くて、その店名が良質のカルタの呼称に転じたのかが分からない。

参考までに、『毛吹草』の「諸国古今の名物」で筑後の項に「三池(ミイケ)賀留多(ガルタ)」とある。元禄二年(1689)の井原西鶴『一目玉鉾』[5]巻四にも「〇三池 立花和泉守殿 此所の名物 賀留多」とある。両書の中間に刊行された『雍州府志』の時代には、少なくとも京都で筑後三池村のカルタ札の評判が高かったことが窺える。だが、「三池カルタ」を「三池」と略記した文献史料の例はないことを考えると、「三池」は別種のカルタの表現というよりも同種のカルタで質の良い「三池屋のカルタ」の略称と考える方が有力であるように見える。

一方、「箔賀留多」であるが、これは、金箔、銀箔入りの用紙を使った木版印刷のカルタを指すのか、それとも、二條あたりで制作されていた表紙(おもてがみ)に金紙、銀紙を用いる手書き、あるいは手描きのカルタと同じものを指すのかが分からない。六條坊門(五條橋通)のカルタ屋の制作技術の体系からすると前者のように思えるが、金紙製、銀紙製の表紙(おもてがみ)に木版印刷をするというのは異例である。これはむしろ、裏紙に金紙、銀紙を用いたカルタと理解したい。サントリー美術館蔵の邸内遊楽図のカルタは表面の縁が金なので、裏紙の金紙の縁返し(へりかえし)であろう。通常のカルタの裏紙は木版で模様を摺りこんだ白紙である。ちなみに、江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)の絵合せかるたや歌合せかるたでは、裏紙は銀紙が主流であり、それが江戸時代前期(1652~1704)、元禄年間(1688~1704)頃に金紙を愛好するように代わったと理解されている。『雍州府志』がこのように読めるとすると、『毛吹草』に「金賀留多」とあることだし、裏銀のカルタから裏金のカルタへの変化の時期はもう少し早めるべきことになる。この辺は、まだ研究が浅く、利用できる物品史料も文献史料も不十分である。ここでは今後の研究で参考になる一史料として紹介しておくにとどめたい。

この文節の最後は「元々はオランダ人がこれを玩び、長崎港の現地人がこれを模倣して戯れとした」という記述である。長崎市は早くから対外貿易に開かれており、天正八年(1580)に大村純忠が長崎六か村と茂木をイエズス会に寄進し、天正十二年(1584)に有馬晴信が浦上村をイエズス会に寄進したので、一時はポルトガル人が多く滞在していたが、オランダ人が長崎に集中するようになったのはもっと後の鎖国直前の時代であり、これは貞享年間(1684~88)の京都での伝聞を黒川が採用した結果の誤記である。ただ、いずれにせよ、カルタの遊技が平戸ないし長崎という対外貿易の港町から広まったことは間違いのないところであるように見える。


[1] 『毛吹草』巻四、加藤定彦『初印本毛吹草影印篇』、ゆまに書房、昭和五十三年、一三八、一三九頁。『毛吹草』岩波文庫、岩波書店、昭和十八年、一五九、一六〇頁。

[2] 『人倫訓蒙図彙』、日本古典全集刊行会、昭和三年、一八九頁。

[3] 「諸国萬買物調方記」『重宝記資料集成』第三十一巻、臨川書店、平成十九年、七八頁。

[4]「京雀跡追」『新修京都叢書』第一巻、臨川書店、昭和四十二年、三一八頁。

[5] 井原西鶴「一目玉鉾」『定本西鶴全集』第九巻、中央公論社、昭和二十六年、二九〇頁。

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