『雍州府志』は次に「歌賀留多」とその遊技法にも触れている。「又賀留多札百枚、半五十札書古歌一首之上句、圍並床上中央残隙地、是謂地、又半五十枚書上歌之下句、是謂出(ダシ)、前所謂中央隙地出置所応手之下句一枚、圍座人各視之所在床上之上句與今所出置之下句、有相合者則取之、然後其所合取之札、筭多者為勝、筭少者為負、是稱歌(ウタ)賀留多、元出自貝合之戯者也。」である。「また、カルタの札百枚、半ば五十の札に古歌一首の上の句を書き、床の上に囲み並べ、中央に隙地を残す。これを地と言う。また半ば五十枚に上の歌の下の句を書き、これを出(だし)と言う。前のいわゆる中央の隙地に手に応じるところの下の句一枚を出し置き、囲んで座る人が各々これを視て床の上に在る上の句と今出し置いた下の句と相合うものがあればすなわちこれを取る。然る後に、その合せ取るところの札を算えて多い者を勝ちとし、算えて少ない者を負けとする。これを歌かるたと称する。もと貝合の戯から出たものである」と読める。

「歌かるた」(以下、「歌かるた」などの日本式のものは平仮名でかるたと表記する。ただし、史料の引用の場合は原本の表記に従う。)では通常のカルタ札とはまるで異なる札を使うので、黒川道祐はカードの構成、内容についても丁寧に言及したうえで遊技法、勝ち負けの判定を書いている。黒川は、まず、カルタの札百枚に和歌を分かち書きすると書いている。和歌を書いた小紙片、上の句札五十枚、下の句札五十枚のカードを「賀留多之札」と認識し、その構成、内容を説明した後で遊技法の説明に入り、その遊技法を「是稱歌賀留多」(これを歌かるたと称する)と書いている。古歌や漢詩を書いた小紙片を海外から伝来したカルタの札と同類のものと認識していることが興味深い。「歌かるた」の歴史を見ると、江戸時代初期 (1603~52)には正方形に近い小色紙型であったものが、江戸時代前期 (1652~1704)には長方形型に変化している。その時期は正確には特定できていないが、『雍州府志』が刊行された貞享年間(1684~88)は古い。ただ、黒川が「カルタ型の札」ではなく「カルタの札」と呼んでいるのは、長方形で白紙のカルタ札用の小色紙そのものを応用して和歌を書き、歌合せかるたの遊技に用いた様子を窺わせて興味深い表現である。また、二条の絵草子屋を取材した当時は「色紙短冊等」であったのだから、もしかしたら「歌かるた」はまだ正方形の小色紙型で、歌人像もついていない文字だけのものだったのかもしれない。そういう意味で、黒川の記述は「歌かるた」の発達史の史料になっている。

さらに、ここで扱っている和歌の「賀留多」は後世に盛んになった「百人一首歌合せかるた」ではない。これは、和歌のかるた史の上では、「百人一首歌かるた」が圧倒的に優勢になった元禄年間(1688~1704)以前に、それ以外の和歌のかるたが京都で制作されていたことを示す貴重な文献史料でもある。

黒川には二條通あたりの経師屋、絵草子屋(雛屋を兼ねる)などで商っていた「歌賀留多」の説明を略したという落ち度はあるが、『雍州府志』で記述している範囲ではその内容は正確である。黒川はここで、古歌の上の句札五十枚、下の句札五十枚で構成される「歌賀留多」について触れている。「百人一首」の「歌賀留多」に触れているのではない。この百枚一組の「歌賀留多」が木版のものか、手書き、肉筆のものかは触れていないが、六條坊門(五條橋通)のカルタ屋は木版のカルタを制作していたのであり、同系統の店で制作しているこの「歌賀留多」も木版のものと考えられる。

実際に、かつて山口吉郎兵衛が『うんすんかるた』で紹介し、後に同じものを禿氏祐祥が東京都目黒区の日本民芸館に寄贈した「五十人一首名所歌かるた」[1]がある。上の句札五十枚、下の句札五十枚は木版で、上の句札に簡単に丹緑に彩色された歌意絵があり、下の句札は文字だけである。「よみ合本」が添付されており、刊記から、制作年は寛保二年(1742)、制作者は「京都寺町五条上る」にあった「清英堂児玉勘十郎」と知れる。そのほか、兵庫県芦屋市の滴翠美術館にかるた札が残されている『都寺社歌かるた』など何点か、同類の木版「歌かるた」の刊行が確認されている。

この種の「歌かるた」は、木版で極彩色に手彩色されており、寛保年間(1741~44)の制作品であることから、元禄(1688~1704)の「百人一首歌かるた」の大流行を受けて、江戸時代中期(1704~89)に木版の「百人一首歌かるた」に倣って制作されるようになったものと理解されていたが、『雍州府志』の記載に照らし合わせると、その発祥の歴史はとても古く、木版の「百人一首歌かるた」の発祥よりも以前であると考えられる。

かつては、京都におけるカルタの制作は、残された文献史料に明らかに不一致であるのになぜか六條坊門(五條橋通)一か所と考えられており、その説の影響下であろうか、研究室は黒川がここで「歌賀留多」として述べたのは「おなじみの百人一首」と解する。百人一首は上の句札百枚、下の句札百枚、合計二百枚一組であり、『雍州府志』が述べているのは上の句札五十枚、下の句札五十枚、合計百枚一組だから、別種の「歌賀留多」である。既成の概念に囚われると眼前の「カルタの札百枚、半ば五十の札に‥‥。また半ば五十枚に‥‥。」という文章の明快な意味でさえ頭に入らなくなって「おなじみの百人一首」と読まれてしまうのであるから怖い。黒川は、六條坊門(五條橋通)での実際の見聞に基づいて、「百人一首歌かるた」の半分のボリュームの古歌の「歌かるた」について正しく書いているのである。

なお、国会図書館蔵本は訓点でこの「歌賀留多」に関する文章を「然る後、その合せ取ったところの札の筭(さん)多き者を勝ちと為す。筭(さん)少なき者を負けと為す」と読むように指示している。「筭」を名詞として読めとする指示である。これは漢和辞典的には正しい使用法であるが、ここまで「筭」という文字は「算える」のように動詞扱いであった経緯からすると、ここは「然る後、その合せ取ったところの札を筭えて多き者を勝ちと為す。筭えて少なき者を負けと為す」とする読み方のほうが誤解は誤解なりに一貫すると思う。最後の最後で正しい使用法に戻ったような印象のする訓点の付け方である。ただ、著者である黒川道祐自身が目を通した訓点で示した指示にはかなわないから、これ以上の異論は申し立てられない。

黒川の記述は、「これを歌かるたと称する。もと貝合の戯から出たものである。」で終わる。「読み」や「合せ」と同様に「歌賀留多」という呼称を紹介しているのであるが、よく見れば、これは「歌賀留多」という名称の遊技法であると説明しているのであって、「歌賀留多」という遊技具を説明しているのではない。『雍州府志』には、①表題の「賀留多」、②箔賀留多、③賀留多を取り持ち、④賀留多を切る、⑤賀留多を打つ、⑥うんすん加留多、⑦賀留多の札百枚、⑧歌賀留多と称す、と七か所で「賀留多」が、また一か所で「加留多」が、だから八回かるたという言葉が使われるが、⑥と⑧を除いた六回はカルタの札を指す。⑥の「うんすん加留多」は、なぜここだけ「賀留多」でなくて「加留多」なのか理解できないが、「かう」「ひいき」という遊技法の名称と並べてあり、「博奕の戯である」とあるから遊技法を示す。⑧は「歌かるた」の遊技法を詳述した後にあり、貝合の遊技に由来すると書かれているので、これも遊技法を指している。「賀留多」という表記に出会ったら、それが遊技法を示すのか、遊技具を示すのか、慎重に見極める必要がある。

いずれにせよ、「歌賀留多」に関する記述はここでの議論とは関係が薄いのでこれ以上の紹介を省略する。


[1] 山口吉郎兵衛「五十人一首名所歌かるた」、『うんすんかるた』、リーチ(私家版)、昭和三十六年、一五二頁。

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