もともと南蛮カルタでは、紋標「ハウ」と「イス」の数札では、「二」から「九」までのすべての札で、棒や剣の図像が交差する中央部分に黄色の菱形の模様がある。これは、ステンシル技法で彩色する際に、交差する部分の印刷が煩雑になるのを防止するための工夫と思われる。日本のカルタ札のうちの天正カルタでは手描きのものでも木版のものでも「四」から「九」までに菱形が見られる。うんすんカルタでも、「火焔龍グループ」では同様に「四」から「九」までであるが、「蝙蝠龍グループ」ではそれが「ハウ」では消滅し、「イス」では「六」から「九」までに限定される。ステンシル(カッパ摺り)の手法では、菱形の模様を用いないで複雑に交差する棒や剣を彩色しようとしたり、菱形の周辺を◇の形に彩色しようとしたりすると、青色や赤色を最低二度に分けて摺らないとでき上らない。なぜこうした二度手間、三度手間の面倒な手法を採ったのかは不明であるが、いずれにせよ伝来の南蛮カルタの模範からは外れている。この点では、菱形のデザインを多用した手描きの「火焔龍グループ」の方が南蛮カルタに近いことになる。
なおこれを六條坊門(五條橋通)で作られた賭博系のカルタ札で見ると、江戸時代前期(1652~1704)の「ほてい屋カルタ」を引き継ぐ江戸時代中期、明和年間(1764~72)の『雨中徒然草』[1]では、「ハウ」は「六」から「九」までに赤色であったと思われる菱形がある。「イス」については図像がないので分からない。また、江戸時代後期、文化、文政年間(1804~30)の「めくりカルタ」には「ハウ」は「六」から「九」までに赤色の菱形、「イス」は「四」から「九」までに手彩色の菱形があり、幕末、明治年間(1854~1912)のステンシル方式(カッパ摺り)のカルタの図像や、それを模した現代の機械印刷方式の「赤八」や「伊勢」の地方札でも同様である。一方、幕末、明治年間(1854~1912)の「めくりカルタ」とそれを引き継いだ「小松」「金極」「三扇」「福徳」などの地方札では「ハウ」も「イス」も菱形は「六」から「九」である。古いタイプの賭博系カルタである「伊勢」「赤八」には「火焔龍グループ」に通じる菱形が見られ、より新しいタイプの「小松」「金極」「三扇」「福徳」に「蝙蝠龍グループ」と共通する菱形がみられることになる。
[1] 太楽『雨中徒然草』(『江戸めくり賀留多資料集』)、近世風俗研究会、昭和五十五年。