上・蝙蝠龍、下・火焔龍
ウンスンカルタ・ハウの二
(上・蝙蝠龍、下・火焔龍)

「ハウの二」の札の変化も重要である。日本のうんすんカルタは、世界にほとんど例のない独特な変貌を遂げた。この札はもともと二本の棒が交差する形に描かれるのであり、この交差するという構図の基本は世界中どこに広まったカルタでも違いはない。ところが、日本では、「火焔龍グループ」のうんすんカルタでは南蛮カルタの札と同様に交差する形であるものの、「蝙蝠龍グループ」では、二本の棒が開いて左右の縁に分けて移され、空いた中央の空間に鶴亀の吉祥図が描かれているのである。鶴亀なので日本の工夫と思われるが、これは全く大胆な変貌である。その趣旨は推測することしかできないが、賭博系のカルタ札で、役札や特に高位の札の場合、図像の上に金銀彩で模様を加えたり、「壽」等の文字を加えたりしている例からすると、うんすんカルタの遊技法でも「ハウの二」の札に何か特別の効果、機能、価値が付されていて、それを表現するために吉祥図になったのであろうと思われる。ここには、日本の遊技法の一端がほの見えているのだが、残念なことに、この点に触れたうんすんカルタの遊技法を書いた文献史料がないので、「ハウの二」がどういう意味で切り札的な存在であったのか詳細は分からない。

ウンスンカルタ蒔絵短冊箱
ウンスンカルタ蒔絵短冊箱

なお、令和元年のサントリー美術館の展覧会「遊びの流儀 遊楽図の系譜」に「ウンスンカルタ蒔絵短冊箱」[1]が出品された。物件の形状からすると「天正カルタ模様文箱」で結び紐を失ったもののように見えるが、やや大型であり、所蔵者の命名に従う。

この「短冊箱」の表面には、カルタ札五枚の模様がある。「イスの二」「オウルの八」「イスの七」「オウルの龍」「オウルの二」である。「イス」の剣の模様がはみ出して途中で切れているので「うんすんカルタ」ではなく「天正カルタ」であることが知れる。オウルの紋標の色分けが赤、緑の縦分割なので木版の天正カルタであるように見えるが、裏紙は、表面の縁返し(へりかえし)の部分を見る限りでは金無地の紙である。したがってこれは、金無地の裏紙が流行した元禄年間(1688~1704)以降に制作された、木版の天正カルタを手本とした手描きの天正カルタ札であると知れる。

そして問題は「イスの二」である。この札の二本の剣は交差して描かれているが、中央上部に鶴の絵があり、下部に亀の絵がある。こういう天正カルタの作例は、木版であれ、手描きであれ、他に知らない。鶴亀の吉祥図の早期の例であろうと思われるが、この鶴亀がいつうんすんカルタの「ハウの二」の札に移り、二本の棍棒を交差型から平行型に開かせたのであるかは分からないが、元禄年間(1688~1704)以降に生じた移行の途中の段階としてはいかにもありそうな変化である。「イスの二」か「ハウの二」はめでたい「役物札」であり、これが手に入ったことを祝うという趣旨であろうか。興味ある図像であることを報告しておこう。

なお、京都のカルタ屋、鶴屋のめくりカルタ札には、「赤の二」の上部に鶴の図がある。まったくの空想だが、鶴屋は、最初に鶴亀の吉祥文様を図像に入れたのは自店だという誇りを残したかったのかもしれない。「短冊箱」の図柄一つから京都のカルタ制作事情に関わるこんな連想が頭に浮かぶ。

いずれにせよ、この点では、「火焔龍グループ」の札は南蛮カルタの図像に忠実であるが「蝙蝠龍グループ」の札はそれから大きく離れている。なお、これを天正カルタで見ると、二本の棒はいずれも交差して描かれており、それはその後の賭博系カルタにも引き継がれていて、日本のカルタで「青の二」の札で棒が開かれたものはない。だから、大雑把に言えば、「ハウの二」の札の棒の図像は交差するものというイメージが天正カルタ、うんすんカルタ、賭博系カルタを通じて確立した後の時代、多分元禄年間(1688~1704)から江戸時代中期(1704~89)にかけての時期に、「蝙蝠龍グループ」の制作者の中で、開いて見せようと考えたアイディアマンがいて新製品として売りだされたものと想定される。③の「南蛮文化館蔵品」は、札の痛みもあり、一見するときわめて古いもののように見えるが、「ハウの二」が開いて鶴亀の図があることから、江戸中期(1704~89)に近い時期のものであることが分かる。

「ハウの二」の図像でもう一つ問題なのは、南蛮カルタにあった「首」の図像である。そこでは、交差する二本の棒の図像の上部中央に頭部、顔面を出している人間の図像があった。これは木版の天正カルタに引き継がれ、賭博系のカルタでも、江戸時代後期の「めくりカルタ」では「赤の二」の札に転移して残されており、現代の「地方札」でもそれを引き継いでいるものがある。だがうんすんカルタでは、「蝙蝠龍グループ」でも「火焔龍グループ」でもこれは消滅していて登場しない。江戸時代の「めくりカルタ」では、「赤の二」の図像は、交差する棒は刑場で交差させて使った磔(はりつけ)の槍であり、「首」は斬首されて晒された罪人の頭部だと言われていた。上流階級向けのうんすんカルタはこの縁起の悪い図像を嫌ったのであろうか。


[1] 展覧会目録『遊びの流儀 遊楽図の系譜』、サントリー美術館、令和元年、一四〇頁。

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