(一)「うんすんカルタ」の制作者

以上の図像の比較検討を経て、「火焔龍グループ」のうんすんカルタと「蝙蝠龍グループ」のうんすんカルタでは、その図像の相違は明確であり、同一の制作者の制作年代の違いによる単線型の変化という図式では理解できるものではないことが分かった。両グループのカルタ札は、ある部分では「火焔龍グループ」の札の方が南蛮カルタに近く、また別の部分では「蝙蝠龍グループ」の方が近いという関係にある。したがって、両者を単線型の発達史で考えると、いずれを古いタイプ、もう一方を新しいタイプと設定しても、どちらの場合でも、南蛮カルタの図像の特徴が消えたり復活したりしているという奇妙な説明になる。通常は、一度消えた図像の特徴は、それによって人々の記憶から消去されるのであるから、後の時代に復活することはない。つまり、二種類のうんすんカルタは先後の関係にあるのではなく、同時期にともに用いられていたと考えられるのである。私は、これは制作したカルタ屋の系列が違うということであり、京都のうんすんカルタの制作地は二箇所だったのだと理解している。

私は、元々は、手描き、手作りのうんすんカルタは、京都、二條で「火焔龍」のうんすんカルタが手描き、手作りの商品として売り出されたところ、制作者に「歌かるた」などの日本式かるたの制作に集中する必要が生じるなど何らかの事情があって「火焔龍」のうんすんカルタの供給不足が生じ、その空隙を狙って別のカルタ屋が「蝙蝠龍」のうんすんカルタを制作するようになったのではないかと想像しているが、制作地の特定については、手描きかるたは二條通の絵草子屋が元祖という一般的な理解をそのまま当てはめているだけで、「蝙蝠龍」のカルタ札の図像は六條坊門(五條橋通)のカルタ屋のものに近いと考えているが、制作者の店の場所がきちんと特定できたものではない。また、「火焔龍」と「蝙蝠龍」の発祥時期の先後の関係については確たる証拠はない。「オウル」紋の彩色方法の違いだけで先後まで考えるのは行き過ぎであろう。ただ、明治二十年代(1687~1696)に山内任天堂が、また明治年間後期(1902~1912)に大石天狗堂が木版のうんすんカルタを制作した際には、手描きの「蝙蝠龍」と同様に「オウル」紋の左半分を赤色に、右半分を紺色に彩色する方法を継承していたことは指摘しておこう。

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