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(一)かるた札の図像と配点の差別化、札の身分化

四枚絵合せかるたの登場によって、かるたの遊技法が大きく変わったが、その中心に「役」の変化があった。もともと、貝覆や江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)の二枚絵合せかるたには、札の特別な組み合わせや使い方に応じた「役」というものの存在が確認できていない。他方で、海外から伝来のカルタの遊技では、「読み」にせよ「合せ」にせよ「かう」や「ひいき」のような博奕色の濃い遊技法にせよ、最初に手札が配分されてそれを基に各人が戦略を立てて戦う。いわば、商売における元手に相当する手札というものが伝来のカルタの遊技法の肝である。そして、配分された手札が特別の組み合わせであった時は「手役」が認められ、あるいは手札を打ち捨てる順番、特に最後に打ち捨てて「上がる」際の札の出し方によっては「上がり役」が認められていた。

四枚絵合せかるたでは、海外から伝来したカルタの遊技のように、手札が配分される。手札の役割は、それで場札を釣り取ることにあり、その際の選択と取り方にゲームの勝敗が直結するのである。かるたの遊技法に、それまでなかった手札を用いた選択という新しいカルタの遊技法が入ってきたと言える。

この手札の導入にともなって、伝来のカルタの遊技法ですでに発生していた「役」も導入された。遊技法の性格上、「上がり役」は生じなかったが、それに代わって登場したのが釣り取った札の構成によって認められる「でき役」であった。この「でき役」をいかに作り上げるのか、その素材となる肝心の札をどうやって釣り取ってくるのかが戦略の基本である。だから四枚絵合せかるたでは、手札と「でき役」が最重要であるという遊技法が認められるようになったのである。

日本式かるたの遊技法の発達史を見れば、以前は、場に晒されている札を合せるものであり、各人に手札を配分することがなかったのだからそもそも「手役」があり得ないし、ゲームの中で釣り取った札による「でき役」もないし、最後の札の出し方で決まる「上がり役」もない。つまり、「役」は貝覆に由来する日本式かるた本来の遊技のルールには存在していなかったのである。フィッシング・ゲームは、ゲームの開始時に札を配分して手札にして、他人には分からないその手札の出し方、場札の取り方を軸にして「でき役」作りを目指して戦略を組み立てて勝負する点で、それまでの遊技法からは大きく逸脱している。

役者金化粧
『役者金化粧』
(八文字屋自笑、江島其碩、享保四年)

「でき役」として文献史料上で確認できる最も古いものは、享保四年(1719)に刊行された八文字屋自笑、江島其碩『役者金化粧』[1]にある「武蔵野(むさしの)の 月(つき)星(ほし)日(ひ) 三光(さんくはう)に」である。ここでは、「武蔵野」、つまり花合せかるた札にある、「芒に月」「桐に星」「松に日」の天空で光るものを表した三枚の札を集めると「三光」という必勝の最上役になることが、江戸、武蔵野の最上の歌舞伎役者、市川團十郎の評判と重ねられている。「三光」、あるいは三個の尊い札「三皇」という役は、もっと以前の「読みカルタ」の遊技法にも登場しているが、ここでは新案の「花合せかるた」にも成立しているのであり、これを依然として「読みカルタ」の役を意味していると解しては文意が通らない。また、この「三光」は、その後、もう一つ、天空で光る「雷光」を表す「柳に稲妻」の札と合わせて「四光」という必勝の役になり、らに、「御殿櫻に幕」の札と合わせて「五王」、のちに「五光」となる一方で、「三光」は「松桐坊主」と改称されて中程度の役になって生き残っている。

花合せかるたの役
花合せかるたの役
(上段は江戸中期手描き札の四光、
下段は江戸後期木版札の五光)

また、フィッシング・ゲームでは各個の札に固有の点数が配分され、あるいは「役」も点数に換算され、ゲームの勝敗は獲得した点数の合計の多寡によって決まる。ついでに言えば、賭金の授受もこの点数次第である。つまり、日本式かるたは絵合せかるたでも、そこから派生した歌合せかるたでも、元来は文芸的な優雅な貴族社会の遊技であったのが、フィッシング・ゲームでは、すべてを点数という数字に転換して、少しでも多くの点数が稼げるように努力して、最後に獲得した点数を精算し、賭金があればそこで現金で決済するという、はなはだ計算づくの商人社会の遊技のように思えるのである。そして、フィッシング・ゲームは勝ち負けが見えた地点でゲーム・オーバーにはならないで、最後の一枚まで捲(めく)られていずれかの参加者に配分される。最終の競技者、つまり「大引け」は、手札の最後の一枚を握りしめていれば必ず自分の物にできる。たとえば、「紅葉に鹿」を持っていて「紅葉に短冊」が残っていれば、最後の一枚で「猪鹿蝶」と「青短」の二役を完成させることができる。だからこの条件は、この遊技の戦略に大きな影響を与えるのである。お互いに一年、田に植えた稲の面倒を見て、秋にお互いの収穫量を比べ合うような感じの遊技である。

こうして見てみると、フィッシング・ゲームは日本式かるたのゲームとしては例外的で、また、伝来のカルタのゲームとしても例外的であり、両者の中間に位置する遊技法ということになる。だが、あえて両者の間に境界線を引けば、四枚絵合せかるたの遊技は、まだ「日本式かるた」の範疇に属するものであったと思う。そして、これだけの大変革が実現するには、それなりの社会的な背景の変化が必要である。また、遊技法の変化は、権力者の定める規則で一挙に変わったりするものでもなく、権威ある文書によって変わるものでもなく、民間で、発信力のあるグループを中心に、口伝えでゆっくりと広まる変化であり、それなりの平穏な時間が必要である。私は、それは江戸時代前期(1652~1704)後半の元禄年間(1688~1704)以降に始まり、江戸時代中期(1704~89)に普及した変化であり、新しい流行の発信地は、京都、次いで江戸の遊里、遊郭であったろうと推定している。


[1] 歌舞伎評判記研究会編『歌舞伎評判記集成』第七巻、岩波書店、昭和五十年、一〇七頁。

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