江戸時代中期、享保年間(1716~36)以降に「舞台芸能絵合せかるた」に大きな変化があった。歌舞伎役者への関心が強まった享保九年(1724)に、大名の柳沢家の重臣の家系に生まれて文武両道に秀でていた柳沢里恭(さととも)(淇園(きえん)、当時二十歳)が甲府と江戸での彼自身の見聞を記した『ひとりね』[1]を表した。同書には、博奕の骨子、かるたの紹介に続いて、「合せかるたといふものあり、武者かるたといふものあり、やくしかるたというものあり、あるいは常うつかるたといふ物にも色々の名有事也」とある。「合せかるた」は挿絵のあるカードとそれに対応するもう一枚の挿絵のあるカードを合せ取る「絵合せかるた」であるが、これと別にされているのであるから、「武者かるた」は「絵合せかるた」ではなくて、字札を読み上げ絵札を取るかるたであり、「やくしかるた」は筆写の際の「やくしやかるた」の誤記で、同じく「役者かるた」であると思われる。なお、「常うつかるた」は日頃から「打つ」ているかるたである。「打つ」というのは博奕遊技に使う外来の「天正カルタ」に固有の所作(「絵合せかるた」や「歌合せかるた」では「打つ」ではなくて「取る」)であるから「天正カルタ」と分かる。つまり柳沢はここで、当時すでに「絵合せかるた」と並んで「武者かるた」、「役者かるた」、多種の「天正カルタ」(松葉屋カルタ、ほてい屋カルタ、笹屋カルタなど)があるといっている。この文章は遊郭などでの大人の遊技具を説明しているが、放蕩息子で遊郭の文化に詳しい柳沢の証言であるから確かであり、享保年間(1716~36)にすでにこれらのかるたが大人用のものとして成立していることが分かる。歌舞伎演目の「漢字札」と「仮名札」で構成される舞台芸能の「絵合せかるた」と並んで、「絵札」と「字札」で構成される「役者かるた」が登場していたのである。

この「舞台芸能絵合せかるた」から「役者かるた」への変化は、遊技法の変化に見合っているものだと思われる。形態的には、「漢字札」からは挿絵が消え、「仮名札」からは文字が消えるという変化であり、挿絵の消えた「漢字札」を読んで、文字の消えた「仮名札」を取る遊技法が開発されたのであろう。そこで「漢字札」は「字札」ないし「読み札」になり、「仮名札」は「絵札」ないし「取り札」になった。その際に、「取り札」の絵は、演目の場面の描写から特定の人気役者が強調されるその役者の人物絵になり、その印象が強くて「役者かるた」と呼ばれるようになったのだと思う。ただし、この辺は『ひとりね』以外に文献史料がなく、「役者かるた」の実物が残っていないので推論を重ねなければならなかった。


[1]柳沢淇園「ひとりね下」『近世随想集』(日本古典文学大系96)、岩波書店、昭和四十年、一七一頁。ただし、句読点は引用者。

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