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(一)元禄年間後期、土佐光成筆の花合せカルタ

この時に発見された新史料は、元禄年間(1688~1704)、多分その後期(1698~1704)の花合せかるた一組である。百紋標・四百枚の内、百紋標・三百六十三枚が残されていた。正式には、「寶永二年拝領花合せかるた」(元禄後期手描き花合せ(1)元禄後期手描き花合せ(2)、元禄後期手描き花合せ(3)元禄後期 手描き花合せ(4))と呼んでおきたい。

このかるたは、縦十九・〇センチ、横十三・一センチ、高さ十八・七センチの朱漆塗りの木箱に収納されている。木箱は江戸時代前期(1652~1704)の慳貪(けんどん)型ではなくて、江戸時代中期(1704~89)以降の典型的なかるた箱で、内部は中央の仕切りで二分され、各々に二百枚ずつ収納するようになっている。これは元箱ではあるまい。

かるた札は縦八・八センチ、横六・四センチで、白色の裏紙で縁返しの手法で作られている。芯紙は使用済みの古紙を再利用してあるが、特別な糊で堅く固めるというような工夫はなく、かるた屋が制作するものと比べると硬度が低く、柔軟な触感である。発見時に残存していたのは百紋標、合計三百六十三枚であり、三十七枚は消失されている。なお、かるた札の半ばは微妙に大きさにずれがあり、札の硬さにも差がある。かつて、その時の所有者によって、痛みの激しい札の補修が行われて、強度を増したこと、その際の細工で微妙に大きさが食い違ったことが想定できる。中に一枚、芯紙から剥して表紙(おもてがみ)だけになっているものがある。仕立直しの作業中に新しい芯紙が計算違いで一枚不足したなど、何らかの事情があって作業途中で残されたものであろう。但し、かるた札そのものは花の描き方や絵具の発色から見て同一の画工が同時期に描き上げたものであることが明白であり、大きさの異なる二組以上の残存かるた札の混淆したものという可能性は否定される。

元禄年間花合せかるた箱書き墨書
元禄年間花合せかるた箱書き墨書

収納箱の底裏面に墨書で「左近将監土佐光成筆 寶永二年正月吉祥日 京都三條西久能姓 近縁千代菊君より拝領之品」とあり、上箱の横面に「第十八号 一、色紙 花(以下欠落) 土佐光成筆 三百七十枚」と墨書された時代不詳の貼紙がある。正式名称の由来である。

土佐光成は京都土佐派の画工であり、その生涯は、正保三年(1647)生、宝永七年(1710)没である。箱書きにある宝永二年(1705)当時には存命していた。記載を信じれば、かるたはこの年に作られた新品で贈与されたものでなく「千代菊」が自分の愛用品を三條西久能に与えたものと想定されるが、宝永年間は前年の三月に始まったばかりであり、前年の正月はまだ元禄十七年(1704)であったのだから、このかるたは元禄年間後期(1698~1704)の土佐光成の作品と考えられる。なお、光成は、延宝九年(1681)に土佐家が代々踏襲している繪所預の地位に就き、正六位下、左近衛将監に叙せられ、元禄九年(1696)に昇進し、五月に従五位下、翌六月に刑部権大輔に叙せられている。そうすると、各人の宮中序列、職名には特に敏感な公家社会のことなので、このかるたの制作は光成の左近衛将監当時のものと想定されるのであるが、そこまで遡れるのかは不明である。刑部権大輔に昇任後にも左近衛将監当時の印象が強くて旧官職名で表記した可能性がある。

三條西久能の経歴、事跡は不明である。三條西家の当主ないしごく近縁の者の中には該当者の名前はない。今後の調査が待たれる。

久能の「近縁」と書かれた「千代菊君」の人物像は不明である。「君(きみ)」と敬称付きで、三條西家の公家が「拝領」しているのであるから、同家よりも格上の五摂家クラスの公家か 皇族の男子であろうか。なお、土佐派は、宮中繪所預職であった土佐光茂(とさみつもち)で宗家の家系が途絶えている。土佐光吉はもともとは「土佐久翌(とさきゅうよく)」と称して、土佐光茂の弟子であったが、光茂が後継者としていた息子の光元が羽柴秀吉軍に加わって戦死したので、やむなく弟子筋の久翌、改名して土佐光吉(とさみつよし)に家督を譲ったのである。ただし、その際に光茂は息子である宗家、光元の遺児三名、つまり孫たちの世話を光吉に託しており、将来は家督を宗家に返還することを望んでいたようにも見えるが、実際には、光吉はそうせず、宗家は光吉の息子の光則(みつのり)、孫の光起(みつおき)へと継受され、光起の繪所預職への復帰により、この血筋が土佐派の本家となった。一方、傍系に追いやられた旧宗家の者たちは京都に居住して絵師を営んでおり、旧宗家の女性を妻とした狩野光信の後見を得て活躍していて、土佐宗忠や土佐勝左衛門の名前が記録に残っている。こうした旧宗家の筋の者の中に、幼名を藤満丸とし、長じて菊千代を名乗った者がおり、この名は旧宗家筋に度々使用されたようである[1]。そうすると、これは単なる空想に近いが、この土佐派の画像の「花合せかるた」は、江戸時代前期に制作者である土佐光成から本家筋の土佐菊千代に渡り、さらに三條西久能に贈られたものであり、それを「千代菊君より拝領」と記したのかもしれない。

なお、この墨書では、三條西久能姓とある。姓は氏と同じ使い方をする文字であり、ここは「三條西久能氏」という意味になる。自筆で「姓」を付けるのかは疑問である。久能本人の記載ではなかろう。そうすると、久光筆や拝領の年月などの情報も光成からの伝聞になる。

元禄年間花合せかるた
元禄年間花合せかるた(『女粧芳鑑』掲載部分)

本品は、かつて女性の衣類、装身具の蒐集家、画家の福岡玉僊の所蔵にあり、昭和八年(1933)に『女粧芳鑑』下巻(八寶堂)で第四十一圖、第四十二圖としてかるた札十枚が公開されたものである。その後、本品の所在は不明であったが、今回、八十六年振りに幻の様に現れた。『女粧芳鑑』においては、第四十一圖、第四十二圖に、同一の解説文が付されている。以下に全文を転記する。

「一、花合せかるた 年代 徳川時代中期を過ぎし頃のものか かるたは第一輯に述べしが如く貝覆より来りしものとウンスンカルタより来りしものの二系統を存す 本圖はいづれにも属せざるものゝ如く普通八八と稱するものゝ如くして以て非なるもの潤筆にて技法も優れしものにて嫁入道具の一として作られしものゝ如し」。

今回、発見時にはかるた札は三百六十三枚が現存している。上箱横面の貼紙(年代不詳)は三百七十枚とするのであるから、その時期から七枚が消失している。また、『女粧芳鑑』に掲載された十枚のかるた札の内九枚は現存するが、「薊(あざみ)」のカス札一枚は消失している。かつて福岡玉僊の所蔵にあった当時には、かるた札は少なくも三百六十四枚存在していたのであり、このことは、七枚のかるた札の亡失の経緯について、ある推定を生む。

なお、このかるたが制作当時にどう呼ばれていたのかは明確ではない。かるた箱にはその記載がない。そうすると、じっさいに取り扱う際に、似たような大きさの他の歌合せかるたや絵合せかるたの箱、あるいは倉庫に収納されていて持ち出すときであればその他の器物の箱との区別がつきにくい。箱の横面に貼り紙があり、そこに見分けしやすいように名称を書いてあったと思われる。また、この貼り紙のある箇所には、箱に直接何事かが墨書されていて、それを黒く塗りつぶしたように見える部分がある。あるいは、この記載を消して新たに貼り紙をしたのであろうか。


[1] 相澤正彦「土佐光吉時代の土佐派」『日本の美術』第五四三号、ぎょうせい、平成二十三年、八四頁。江村知子「土佐光吉と近世やまと絵の系譜」『日本の美術』第五四三号、ぎょうせい、平成二十三年、一七頁。相澤正彦同「桃山時代の土佐派の実像―土佐宗家と弟子光吉をめぐって」『聚美』第二十六号、聚美社、平成三十年、三四頁。

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