百人一首かるた絵が版本の『素庵百人一首』とそれを模倣した『尊圓百人一首』に由来することが明らかになったとして、次の課題は、手本となった『素庵百人一首』における歌人画は何に由来したのかの解明である。それが先行していた三十六歌仙画帖などの図像を模倣したものであるとは以前から言われているところであったが、それを徹底して調査した例は知らない。そこで私は、この不足を補う調査を行うこととした。その際には、百人一首の歌人画については、基準の史料となる東洋文庫蔵『素庵百人一首』のものを用い、三十六歌仙絵には『佐竹本』[1]や『藤房本』[2]の系統もあるが、これも基準として認められている『業兼(なりかね)本三十六歌仙』[3](以下、『業兼(なりかね)本』)を用いることとした。私は、東京国立博物館蔵の江戸時代の摸本を基準作として、これとの比較で問題を検討した。なお、江戸時代前期(1652~1704)の刊本も参考になった。『佐竹本』や『藤房本』の系統のものについても詳細に調べたが、『素庵百人一首』との歌人図像の齟齬(そご)が激しく、手本にしたようには見えない。この点で、「参考になりそうな歌仙絵を捜すと、藤原信実(のぶざね)画とされる『佐竹本三十六歌仙』などの三十六歌仙絵が浮上します」[4]と佐竹本モデル説を唱える者があるが、史料を実際に見比べればこれはありえない虚説であることがすぐに分かるのであって、この者が史料も見ないで論じている事態が暴露される。証拠に基づく学術的な指摘とは到底評価できない。
このほかに『素庵百人一首』が転用した可能性のある歌仙絵として『時代不同歌合画帖』、『女房三十六人歌合画帖』、『釈教三十六人歌仙』がある。『時代不同歌合画帖』については、鎌倉時代に成立した当初のものは基準となるほどの量が残されていないので、『素庵百人一首』と同時期に古い時期のものを模写しつつ成立した住𠮷具慶、狩野秀信の作品を使う[5]。『女房三十六人歌合画帖』についても今日では室町時代以前のものを見ることができないので、江戸時代初期(1603~52)の土佐光起のものを使う[6]。この時代には、今日では見ることが叶わない、手本となったであろう室町時代以前の画帖がまだ残っていて、光起はそれに依拠したと想定できるので、『光起本』を経由してそれ以前の時期の「女房三十六歌仙画帖」の概要を想定できるのである。『釈教三十六人歌仙』については江戸時代初期(1603~52)の版本『釋教卅六人謌仙』を使う。調査の結果をまとめると次のようになる。
(1)百人一首の内容は大別すると平安時代初期、前期の王朝文化の最盛期の和歌を集めた前半五十首と、院政期の和歌に及ぶ後半五十首に分かたれる。まずこのうち前半の歌人について見てみると『業兼(なりかね)本』との図像の一致が著しいことに気付く。
三十六歌仙画帖に登場する三十六人の歌人のうちで百人一首にも採用されている者は柿本人麿、山辺赤人、猿丸大夫、中納言家持、小野小町、僧正遍昭、在原業平朝臣、藤原敏行朝臣、伊勢、素性法師、中納言兼輔、源宗于朝臣、凡河内躬恒、壬生忠岑、坂上是則、紀友則、藤原興風、紀貫之、平兼盛、壬生忠見、清原元輔、権中納言敦忠、中納言朝忠、源重之、大中臣能宣朝臣の二十五人で、全員が前半の五十人に登場する。残りの十一人の歌人は百人一首には採用されていない。
これを『業兼(なりかね)本』の側から見ると、二十五人中の十四人(柿本人麿、山辺赤人、中納言家持、小野小町、在原業平朝臣、伊勢、源宗于朝臣、凡河内躬恒、壬生忠岑、坂上是則、平兼盛、壬生忠見、権中納言敦忠、大中臣能宣朝臣)については『素庵百人一首』の図像が『業兼(なりかね)本』の同一人物のそれに酷似している。三人(僧正遍昭、藤原敏行朝臣、紀友則)がポーズや持ち物に多少の差異はあるがよく似ている。三人(素性法師、中納言兼輔、源重之)が左右は逆転しているがよく似ている。これで二十五人の歌仙のうちで二十人は本人の図像が百人一首の歌人として転用されたことになる。
残りの五人のうちで、中納言朝忠については、『業兼(なりかね)本』の図像が未発見であるが、この歌人だけ三十六歌仙絵から転載しない理由は考えにくいのでこれも歌人画は歌仙絵に依ったものであったと仮定して先に進みたい。猿丸大夫、紀貫之、藤原興風、清原元輔が残る。猿丸大夫は『素庵百人一首』では手をかざす広く伝わる図像になっている。これと異なる『業兼(なりかね)本』の絵は『素庵百人一首』では採用されていない。ところがこの『業兼(なりかね)本』の猿丸大夫の絵は、『素庵百人一首』では三十六歌仙外の歌人である文屋康秀の歌人画として転用されて登場する。猿丸大夫の手をかざす図像は室町時代以降に圧倒的に流行したものであり、『素庵百人一首』の絵師はそれを組み込んで図像を改変したが、元来の猿丸大夫像も捨てがたく、文屋康秀として残したのであろう。紀貫之は、『素庵百人一首』では笏(しゃく)を縦にして身体前面の中央に持っているが、この構図は、元来は『業兼(なりかね)本』では源公忠のものであり、これに押しのけられた『業兼(なりかね)本』での本来の貫之の図像は『素庵百人一首』では後徳大寺左大臣と後京極摂政前太政大臣になっている。藤原興風は『業兼(なりかね)本』では笏を左肩に担ぐようなしぐさであるがこの構図は『素庵百人一首』では清原元輔になり、元輔だった図像は左京大夫顕輔になっている。こうした空いた興風の席には『業兼(なりかね)本』の藤原清正の図像が収まっている。結局、『業兼(なりかね)本』の歌仙絵にある二十五人の歌人は、何人かは妙な具合に転移したが、全員の図像が『素庵百人一首』のどこかで使われていることが分かる。
(2)次に、百人一首に採用されなかった三十六歌仙の歌人十一人であるが、実は『素庵百人一首』ではいずれも他の歌人の図像に転用されて用いられている。この点は現代人の感性からするとやや非常識に見えるが、もともと歌仙絵は歌人の理解のために和歌の本文に添えられたものではなく、歌集に平安時代の優美な王朝文化のイメージを添えることで魅力を増そうとするイラストとして付け加えられたものであり、それらしい雰囲気が醸し出されるのであればよく、その歌人のものの考え方や人間性などには関心がない。したがって、表情は蟇目鉤鼻(ひきめかぎばな)であればよく、衣裳がその歌人の生きていた時代のものでなくて乱れていても気にしないし、それどころか人物が入れ替わっていても問題ではなかったのである。
十一人の者の百人一首前半の五十人の歌人への化け振りを見ると、『業兼(なりかね)本』の大中臣頼基は『素庵百人一首』の天智天皇や陽成院になり、源公忠は光孝天皇と紀貫之になり、源順は大江千里になり、藤原仲文は春道列樹になり、小大君は右近になり、源信明は元良親王と藤原義孝になった。藤原清正は冠を変えて安倍仲麿になったり、文屋朝康になったり、藤原興風になったり、扇を広げて曽祢好忠になったりと大忙しである。以上で七人であり、残り四人は後半の五十人に登場する。なお、蝉丸については『業兼(なりかね)本』の図像が未発見なので判断ができない。本人図像の二十五人と合わせると三十六歌仙のうち三十二人が百人一首上巻の歌人画として登場しているのである。
(3)三十六歌仙で残るのは百人一首に採用されなかった十一人のうちの四人である。この四人は前半に適切な身代わり先がなかったのか、後半の五十人の歌人に成り代っている。すなわち、藤原高光は藤原基俊になり、藤原元真は源俊頼朝臣になり、斎宮女御は祐子内親王家紀伊になり、中務は相模になっているが、兼ねて持統天皇にも姿を貸している。つまり、『業兼(なりかね)本』の三十六歌仙は全員が『素庵百人一首』に登場しているのである。
(4)この事態を今度は百人一首、『素庵百人一首』の側から見てみよう。まず、前半部分の五十人の歌人に関しては、本人の図像が三十六歌仙から移転してきた歌人が二十三人、他人に成りすましているのが九人で、頼基、信明は二人、清正は三人に成りすましているので延べで十三人、合計三十六人の歌人画が三十六歌仙由来である。こうした歌人図像の無関係な歌人への転用は驚くべきことであるが、その上を行くのが本人として登場するのにさらに他人にも成りすましている歌人であり、藤原興風は一人、在原業平朝臣、素性法師、中納言兼輔、源宗于朝臣は二人、坂上是則は三人に成りすましているので延べで十二人となり、結局、五十人の歌人中の四十八人の図像は『業兼(なりかね)本』のもので間に合ったのである。
(5)これに、『業兼(なりかね)本』以外の歌仙絵から図像を用意した猿丸大夫、蝉丸の二人を加えると五十人になる。つまり、『素庵百人一首』の前半五十人は、業兼(なりかね)本』から採った歌人像が四十八人、別に用意した歌人像が二人ということになる。ただし猿丸大夫に関しては『業兼(なりかね)本』の図像が室町時代以前の古いもので廃れており江戸時代初期(1603~52)の社会で普通に通用しているものに戻したのであろうし、蝉丸に関しては『業兼(なりかね)本』の歌仙絵が見付かっていないからカウントできないだけで、これもまた『業兼(なりかね)本』の図像と同じである可能性は相当にある。
(6)後半の五十人に移ると、まず、天皇と皇族が五人いる。このうち、崇徳院は上巻の天智天皇や陽成院と同じく大中臣頼基であり、三條院、後鳥羽院、順徳院は上巻の光孝天皇と同じく源公忠の転用である。いずれも高位の公家の図像の下に繧繝縁(うんげんべり)の上畳を配すれば天皇の図像になるという安直な構図であることに驚く。
(7)女性歌人は皇族の式子内親王を含めて十七人と数多い。このうちですでに祐子内親王家紀伊には斎宮女御を転用し、相模には中務を充てたので十五人が残る。これについては「三十六歌仙」画帖では手本となるべき女性歌人の数がとても少ないので、別に手本を求める必要があり、「女房三十六人歌合」画帖[7]の図像を転用した可能性が考えられる。百人一首の二十一人の女性歌人で「女房三十六人歌合」画帖にも採用されているのは、小野小町、式子内親王、伊勢、周防内侍、右近、待賢門院堀川、右大将道綱母、赤染衛門、二條院讃岐、和泉式部、紫式部、小式部内侍、伊勢大輔、殷冨門院大輔、清少納言、大貮三位、儀同三司母、祐子内親王家紀伊、相模の十九名であり、持統天皇と皇嘉門院別當は選ばれていない。この十九名のうち、三十六歌仙画帖の応用で解決済みの百人一首前半の小野小町、伊勢、右近の三名と、後半の裕子内親王家紀伊、相模の二名を除外した十四名には女房三十六歌仙画帖の図像が転用されているかも知れないのである。そこで、史料的には時間が前後してしまうが時代が近い寛文年間(1661~73)に制作された土佐光起の『女房三十六人絵合』画帖[8]を基準作品として『素庵百人一首』と比較すると、両者の間の相関関係はほとんど存在しない。『素庵百人一首』は女房三十六歌仙の画帖を手本とはしていなかったのである。
これに代わって注目されるのが『時代不同歌合』画帖である。この画帖では、百人一首の女性歌人二十一名のうち、十四名、小野小町、式子内親王、伊勢、右近、待賢門院堀川、右大将道綱母、赤染衛門、二條院讃岐、和泉式部、紫式部、小式部内侍、殷冨門院大輔、儀同三司母、祐子内親王家紀伊が採用されている。これについて、住友具慶、狩野秀信が描いた画帖と『素庵百人一首』の歌人画とを比較すると、両者はとてもよく似ている。一方、『時代不同歌合』に採用されなかった持統天皇、大貮三位、伊勢大輔、清少納言、相模、周防内侍、皇嘉門院別當の七名については『時代不同歌合』に図像がないが、持統天皇と相模については三十六歌仙画帖の歌人像の転用で済ませることができた。また、皇嘉門院別當についても、黒髪の目立つ後ろ姿で描かれているから、三十六歌仙画帖の冝秋門院丹後の図像を転用したものと思われる。残りの四名、大貮三位、伊勢大輔、清少納言、周防内侍については『時代不同歌合』の歌人絵の中から適当なものをアレンジしたと思われるが、強いて手本を捜すと私の主観に陥りそうであるのでよく分からないままにしておきたい。
(8)後半の僧侶は八人を数えるが、手本は『釋教卅六人謌仙』であったのではないかと思われる。これについては、東京国立博物館に「釈教卅六人歌仙図 勧修寺僧正榮海撰」の断簡が残るほか、国立国会図書館に寛文九年(1669)刊の版本『釋教卅六人謌仙 勧修寺僧正栄海撰』がある。同書には、百人一首に登場する十三名の僧侶は全員収録されている。そして、同書の序文には「貞和(じやうわ)三のとしやよひの廿日あまりの比(ころ)」の撰であると記されているので、鎌倉時代の貞和三年(1347)三月に書、絵ともに成り立ったものと推定されている。僧正栄海はこの時期の僧侶で歌人でもあった。その後、同本がどのように継受されたのかは不明であるが、三百年後の江戸時代前期、寛文九年(1669)に版本が出版されているので、確実に継受されていたものと思われる。『素庵百人一首』の絵師もこれを見ることができたであろう。実際、残されている図像を見ると、顔の向きが違うものが若干あるものの、十三名の僧侶歌人画は、全体としては著しく類似しており、これを手本としたと判断できる。
(9)以上、二十九人がすでに解決済みである。残る男性の歌人は二十一人であるが、源俊頼朝臣には藤原仲文を充てたので残りは二十人である。この者たちの歌人像の手本を『業兼(なりかね)本』に求めると、藤原実方朝臣は藤原清正、藤原道信朝臣は在原業平朝臣、大納言公任は源宗于朝臣、左京大夫道雅は壬生忠岑、権中納言定頼は大中臣頼基朝臣、大納言経信は猿丸大夫、前中納言匡房は後ろ向きの独自のもの、藤原基俊は藤原高光、法性寺入道前関白太政大臣は逆向きの中納言兼輔、源兼昌は正面を向いた独自のもの、左京大夫顕輔は藤原清正、後徳大寺左大臣は逆向きの藤原敏行朝臣、皇太后宮大夫俊成も逆向きの藤原敏行朝臣、藤原清輔朝臣は源順、後京極摂政太政大臣は逆向きの源公忠、鎌倉右大臣は逆向きの中納言兼輔、参議雅経も中納言兼輔、入道前太政大臣は中納言家持、権中納言定家は中納言兼輔、従二位家隆は源順あたりであろう。
以上の調査結果が示すように、『素庵百人一首』は』の歌人図像を利用して成立している。この発見は衝撃的であった。百人一首の歌仙図が、三十六歌仙の全く適当な入替作業の結果であったという事実の解明は、巨大な破壊力を有する。何よりも、そこに登場する多くの天皇、上皇が、実は大中臣頼基という公家であった。しかも、さらに困惑するのは、天皇、上皇の図像は、今風に言えばクローン人間で、多くの者が皆一人の公家の同じ絵姿のコピーであった。確かに、天皇、上皇に関しては手本と出来る図像が少ないし、当時の世の人々は、もはや『業兼(なりかね)本三十六歌仙図画帖』などを見る機会はないのだから、そこからコピーしてこれが光孝天皇です、これが陽成院です、これが三条院です、これが後鳥羽院です、といってしまえば、土佐派の技巧と権威に裏付けられて十分に通用したであろうけれども、それにしてもひどい話である。そして、公家の間での入れ替えも数多く、この歌仙図には、歌人の人柄、個性を表そうという意図は感じられない。笑い話で恐縮であるが、昔、百人一首かるたの清少納言の図像がたまたま後ろ姿である例がいくつかあるので、そこから、これは清少納言が自分は美人でないことを恥じて顔面の図像を遠慮して描かせたものであると真面目に論じた者がいる。こうした発想それ自体が女性に対して侮蔑的であるが、そもそも百人一首かるたとその元になった画帖では、歌人像は歌人その人の個性、人物を描こうとしていないし、清少納言の場合は、どこの誰か、別人を持ってきたのであって清少納言本人を描いたものでさえない。こういう事情も分からずに清少納言不美人説などを振りまく研究者こそ笑い話の種である。
要するに、百人一首かるたには、それらしい歌人像が付いていればよい、まさに現代社会でのイラスト画の感覚で描かれていたのである。森暢(とおる)に始まる今日の歌仙絵史研究の多くの業績が記述してきたある疑問点がこうして全面的に白日の下に曝されると、それまでの研究の不徹底さ、ひいては論述の不徹底さがあらわになる。
ただここで、経緯についてはもう少し明らかにしておきたい。まずは江戸時代初期(1603~52)に成立した『光悦三十六歌仙』である。これは、『業兼(なりかね)本』の土佐光茂(みつもち)の図像を模倣して、光悦流の書も添えて出版された版本とされているが、三十六歌仙絵が版本になって一般の鑑賞が可能になったのは初めてであり、大いに歓迎された。これとほぼ同じ時期に成立したのが角倉素庵の『素庵三十六歌仙』であるが、同書は、原題簽、原表紙、原刊記をいずれも欠き、残存するものも極めて少ない幻の書作である[9]。この『素庵三十六歌仙』もまた土佐光茂(みつもち)の図像を用いている。これを研究した鈴木淳[10]は、『光悦三十六歌仙』と『素庵三十六歌仙』はほぼ同時期に成立しているが、書画のいずれも作品の出来栄えは圧倒的に、『光悦三十六歌仙』が勝っており、光悦と親交のあった素庵が後追いで品質の下がる出版をするはずはないので、たぶん、『光悦三十六歌仙』の出版の直前に何らかの事情があって素庵自身の書を載せた版本を先行出版したものであり、その際には、『素庵百人一首』と共に出版されたと推測している。そうだとすると、ほぼ同時期に制作された、『光悦三十六歌仙』『素庵三十六歌仙』と『素庵百人一首』で、土佐派の同一の歌仙絵を手本としたことは不思議ではない。つまり、光悦、素庵グループでは土佐光茂(みつもち)の歌仙絵を利用することがごく自然であったということになる。その際に、土佐派の後継者とどのように折り合いをつけたのかは知られていないが、こういう模倣は当時の絵師にとってはごく当たり前の作法であった。神作研一も歌仙絵の変遷として「いったいに歌仙絵は、江戸時代に入って土佐家が宮廷絵師として復権するとともに伝統的な画題として捉えられたから、普遍性と類似性を有することこそが正統な歌仙絵であることの裏付けともなった。ありていに言えば、古図(たいがいは業兼本系統、具体的な手本としては土佐派の描くそれ)に似ているかどうかが、ホンモノの輝きを持つための要件だったのである。したがって、江戸前期の特に版本においては、新しい歌仙絵が生み出される余地はほとんどなく、嵯峨本『三十六歌仙』を筆頭に、それを踏襲した素庵本(2三十六歌仙、3百人一首)が続いた。」[11]としている、大きな判断としては正しい。こういう事情が理解できないで、著作権という概念がない江戸時代初期に起きた図像の模倣という事象を「盗作疑惑」[12]と騒ぐのは、歴史に対する基本的な不勉強、そして無理解である。
[1] 佐竹本については、東京美術青年会『歌仙 三十六歌仙絵』、同会、昭和四十七年に、八枚のカラー図版、三十七枚(含:住吉大明神図)の単色図版があり、馬場あき子、NHK取材班『秘宝三十六歌仙の流転』、日本放送出版協会、昭和五十九年に三十七枚のカラー図版がある。
[2] 藤房本の系統については、寺島恒世「変貌する三十六歌仙絵―藤房本の特異性―」『絵が物語る日本:ニューヨークスペンサー・コレクションを訪ねて』、三弥井書店、平成二十六年、二〇四頁。
[3] 業兼本の歌仙絵については、真保亨「業兼本三十六歌仙絵」『美術研究』第三百二十五号、東京国立文化財研究所美術部、昭和五十八年、八四頁。
[4] 吉海直人『百人一首かるたの世界』、新典社、平成二十年、四九頁。
[5] 『時代不同歌合絵』については、「特集 時代不同歌合絵―歌仙絵の研究」『古美術』第八号、三彩社、昭和四十年に全絵の単色画像がある。
[6] 『女房三十六人歌合画帖』については、『女房三十六人歌合』、ふたば書房、平成二年に全絵のカラー図版がある。
[7] 若杉準治『女房三十六人歌合』、ふたば書房、平成二年。
[8]若杉準治、前引『女房三十六人歌合』、一五頁。なお土佐光起については、岩間香「土佐光起と禁裏絵所の復興」『日本美術工芸』第六百五十六号、日本美術工芸社、平成五年、三六頁。実方葉子「神話なき神話『絵所預土佐光起』の遍歴」『美術フォーラム21』創刊号、醍醐書房、平成十一年、三五頁。
[9] 『素庵百人一首』については、長く、東洋文庫蔵のものだけが知られており、私も含めて研究者はそれを利用していたが、このものが寛永年間に出版された初版のものであるのか、別の版木を用いた後摺りの普及品であるのかは判然としなかった。その後、跡見学園女子大学に二冊所蔵されており、内一冊は東洋文庫蔵のものとは別の版であることが判明している。何れが元来のもので、何れが後摺りの普及版なのか、あるいは双方とも普及版なのかは分からない。したがって、これをもって『素庵百人一首』の美術的な評価をすることには若干の留保が必要である。
[10] 鈴木淳「光悦三十六歌仙考」『江戸の歌仙絵―絵本にみる王朝美の変容と創意』、国文学研究資料館、平成二十一年、一〇四頁。
[11] 神作研一「江戸の王朝美 歌仙絵入刊本の展開」、『江戸の歌仙絵―絵本にみる王朝美の変容と創意』、国文学研究資料館、平成二十二年、一三〇頁。
[12] 久下裕利「探幽歌仙絵盗作事件」『学苑』八百十九号、昭和女子大学近代文化研究所、平成二十一年、九五頁。