(四)『百人一首手鑑』における女性歌人像の混乱と史実

『時雨殿本3』と『時雨殿本14』がどのような経緯で時雨殿の所蔵に帰したのかは購入の情報が公開されていないので分からないが、両者を見比べると制作された時期が近接するものに見える。そして清原雪信は元禄年間(1688~1704)に活躍した絵師であるから、『時雨殿本14』の成立時期をそれ以前にすることは無理である。それなのに、両者の図像は同時代の作品の様によく似ている。そこで、時雨殿は、『時雨殿本3』は江戸時代初期(1603~52)に制作されたもので、『時雨殿本14』はその図像を数十年後の元禄時代(1688~1704)に清原が極めて忠実に模写したものであるとした。画帖が二本あり、一方には江戸時代初期(1603~52)の作であるとする印章があり、もう一方には江戸時代前期(1652~1704)であるとする絵師の名前がある。両者がともに正しく制作年代を示していると考えるには、前者が成立した数十年後に後者がそれを参考にして別の絵師によって制作されたという主張になる。だが、これまでに見てきたように、『時雨殿本3』と『時雨殿本14』は、その画像が、菱川師宣の『像讃抄』挿画や『小倉山百人一首』以降の版本の影響を強く受けて成立しており、いずれもが江戸時代前期(1652~1704)の後半期、元禄年間(1688~1704)の作品であるという基本的な特徴が顕著である。両者は同時代の製品であって、『時雨殿本14』が『時雨殿本3』の五十年後の模写であるという説明もまた、歴史の説明としては誤りである。

要するに、『時雨殿本3』も『時雨殿本14』も、元禄年間(1688~1704)かそれにごく近い時期の製品である。赤染衛門と祐子内親王家紀伊の上畳が繧繝縁(うんげんべり)である点がそのことを明示している。『時雨殿本3』を実例として、百人一首の歌人絵の発祥期には、持統天皇については手本とする適切な図像が見当たらなかったので、三十六歌仙画帖にある同じ皇族の斎宮女御の図像を転用したというストーリーを唱える者がいるが、これは歌仙絵の制作事情に考えが及んでいない思い込みだけの不正確な指摘である。歌人画付き百人一首版本の嚆矢であり、百人一首歌仙絵で決定的な影響力を発揮した『素庵百人一首』では、持統天皇は三十六歌仙画帖での中務の図像に几帳と上畳をあしらったものであり、斎宮女御モデル説がそもそも成り立たないとともに、三十六歌仙画帖での斎宮女御の図像は、実は持統天皇ではなくもう一人別の女性歌人、祐子内親王家紀伊(一宮紀伊)になって登場している。持統天皇図像の斎宮女御モデル説に立つと、角倉素庵は、『素庵百人一首』以前には持統天皇になっていた斎宮女御の図像を祐子内親王家紀伊に追放して、その代わりに持統天皇図像として中務を招待し、新たに几帳を配したことになる。一流の文化人であった素庵が全く非合理で理解不能なこうした行動を行ったことになる。そもそも持統天皇の図像では式子内親王の図像と同様に左側几帳であるのに斎宮女御の図像では右側几帳であり、根本的に構図が違っている。この説にとっては甚だ具合の悪い展開である。逆に、『時雨殿本3』は持統天皇と式子内親王の図像の入れ違えをした清原の誤った画帖の影響下にあって同じ間違いを模倣したと理解すれば疑問は氷解し、この画帖が典型的に元禄年間(1688~1704)の百人一首画帖の様式であることは容易に理解できる。

斎宮女御の図像は、百人一首絵の発祥期に持統天皇に転移して用いられていて『素庵百人一首』以降では消滅させられたのではなくて、最も古い『素庵百人一首』では祐子内親王家紀伊の図像に転移していて、その後も祐子内親王家紀伊はそのまま皇族扱いであり、平成の現代までその状態が続いている。『素庵百人一首』以降の画帖でも持統天皇へ転移した例は見当たらない。ただ江戸時代前期、元禄年間(1688~1704)頃の刊本にこの例を見ることがあるが。こういう座席の混乱を正す意気込みで描かれた菱川師宣の『像讃抄』では、祐子内親王家紀伊の図像での繧繝縁(うんげんべり)の上畳は外されて臣籍に降下させられたが斎宮女自身は祐子内親王家紀伊の座像として生き伸びて、几帳も取り上げられることなく残され、その後、この几帳につられたのか、いつの間にか他のかるた絵師によって繧繝縁(うんげんべり)の上畳も復活している。

こういう事情なので、持統天皇の図像が斎宮女御の図像の後身、生まれ変わりにされた時期があるという指摘は根拠がない。そんなことをいうくらいなら、あるかるた絵師が、斎宮女御が好みで百人一首に登場しないことを惜しんで女官の祐子内親王家紀伊として「百人一首かるた」に忍び込ませ、人々は紀伊が斎宮に入れ替わっていることに気付きながらも気づかぬふりをしてその後も丁重に皇族扱いを続け、この身代わりは四百年後、二十一世紀の平成の御代のかるたにまで及んでいる、どっこい斎宮女御は現代まで生き続けているというストーリーのほうが、どっこい義経は生きているだの、どっこい西郷隆盛は生きているだのという話の二番煎じのような気がするがまだましである。持統天皇の図像が斎宮女御だという根拠のない推測を基にして『時雨殿本3』や『時雨殿本14』が模写した原本が江戸時代初期、持統天皇の歌人絵の大筋が確立するよりも以前の時期のものと判断するのは、見識の薄さを示していてとても危なっかしい。

時雨殿は、「小倉百人一首殿堂」を目指して平成十八年(2006)に任天堂が費用を投じて設立し、平成二十四年(2012)に再開館した観光施設であり、京都市の観光客を目当てにして百人一首の歴史を展示、解説している。そうした施設としては、「百人一首かるた」の発祥期を物語るなるべく早い時期のかるたや関連史料、できれば最古のものを入手するように努力したであろう。だが、かるたの史料は希少であり、展示の目玉になるような優品を短期間で蒐集することは容易ではない。時雨殿は大いに健闘したが、そうした限界はあった。そこに生じる焦りが、館を代表して史料を鑑定、評価する関係者にコレクションの女神が自分だけに微笑んでいるというファンタジーを生み出し、入手した史料の誇大評価を作り出し、江戸時代の幇間故実家さながらの誇大鑑定を行わせている。

結局、『時雨殿本3』を「百人一首がまだ類型化・典型化される前の混沌とした状態を残している貴重な資料」と江戸初期の作品であるとするような史料の鑑定は、江戸時代前期の歌仙絵、歌人画、そして手鑑の成立した経緯が理解できていないために陥る誤謬であると言わざるを得ない。『時雨殿本3』や『時雨殿本14』をもってしても慶長、元和年間(1596~1624)の百人一首画帖の存在は証明できていないことになる。なお、こうした正しい歴史像を受け入れれば、時雨殿の入手した『時雨殿本3』は、寛文、延宝年間(1661~1681)の肉筆手鑑の成立期を物語る貴重な史料のひとつという評価ができるのに、功を焦って、『素庵百人一首』以前、慶長、元和年間(1596~1624)のような江戸初期(1603~52)の作品であるとするファンタジーの世界に連れ込んでしまっては身も蓋もない。せっかくの好史料であるのにその歴史的な価値が見えなくなって、訳の分からない説明をされて観光施設の正体不明の色物の展示品に堕してしまう。もったいなくも可哀想な話である。

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