(四)尾形光琳による改革の試み

百人一首の版本の改革者が菱川師宣であったとすれば、「百人一首かるた」の改革者は尾形光琳であった。「百人一首かるた」では、元禄年間(1688~1704)になると『像讃抄』の影響が増して古型から標準型へと転換したが、光琳はそれに不満を持ち、かるたを美術作品として描いた。光琳は元禄年間(1688~1704)の後期から宝永年間(1704~11)にかけてこの課題に取り組み、慎重に下絵を描いたのちに今日名高い「光琳かるた」を完成させた。このかるたは、元々屏風に糸留めして鑑賞するように制作されたもので、上の句札では歌人像が大きく、生き生きと描かれていた。光琳はここでそれまでのかるたでの歌人図像が平面的なものになってイラスト化した原因の一つであった『尊圓百人一首』の畳枠の表現を避けて、『素庵百人一首』に戻して無畳の表現を採り、図像の立体感を回復させることに成功した。また、下の句札では、菱川師宣の歌意図にヒントを得たのか、光琳ならではの歌意絵を地模様のように加えた。このかるたについては、それがあまりに華麗であるのでもっぱら美術品として鑑賞され、昭和後期(1945~89)には繰り返し復刻品が発行されてきた。その美しさのために見逃されがちであるが、このかるたの制作における光琳の改革に向けた強い意思も汲み取ることが望ましい。光琳は、こういう意味で「百人一首かるた」の改革者であったが、芸術作品としての完成に集中していたので、その作品も一点限りであり、広く知られることはなく、一般社会に流通するかるたの図像の改革には結びつくことがなく、そちらでは菱川師宣流の図像、表記のものが伝播していった[1]

こうして、およそ元禄年間(1688~1704)に「百人一首かるた」は大きく変化して今日まで続く標準型のデザインのものになったのであるが、延宝年間(1673~81)の菱川師宣による改革は師宣自身の発意によるものなのか、それとも何か手本があったのかは、昭和後期の私の研究では分からなかった。改革の真のリーダーは誰だったのか。平成期に残された一つの研究課題であった。ここで、私の研究の成果を説明しよう。


[1] 尾形光琳の百人一首かるた絵については、仲町啓子「尾形光琳の造形性に關する一考察—百人一首カルタを中心として―」『国華』第千二十七号、国華社、昭和五十四年、九頁がある。また、蔵中スミ『江戸初期の三十六歌仙――光琳・乾山・永納』、翰林書房、平成八年がある。美術品としての評価、政治社会的背景について、いずれも私の見解とは大きく異なる。

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