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(七)崇徳院の上畳描写が示す歴史的な意味

歌人絵というジャンルでの土佐派と江戸狩野派のしのぎ合いは、結局は、狩野探幽らの『百人一首手鑑』が幕府に受け入れられたことによって江戸狩野派の歌人絵の正統性が幕府によって公認され、同派の全面的な勝利に終わった。また、江戸の浮世絵師菱川師宣の活躍により版本において江戸狩野派の図像の優位が確立し、それが「百人一首かるた」の歌人絵、歌人画に伝播して、「古型百人一首かるた」が終息して崇徳院に繧繝縁(うんげんべり)の上畳のある標準型のかるたに転換する大きな流れとなっていった。こうして、「古型百人一首かるた」に終わりの時が来た。京都には、画壇にも出版元にも絵師にもそしてかるた屋にも、江戸狩野派と幕府の攻勢をしのぐ力はすでになく、肝心の朝廷も、幕府の威勢に対抗する気概を失っていた。

狩野永納『三十六人歌仙画帖』  (紀貫之、江戸時代前期)
狩野永納『三十六人歌仙画帖』
(紀貫之、江戸時代前期)

こういう政治的、社会的な背景の中での元禄年間(1688~1704)における標準型のかるたの成立と古型百人一首かるたの衰退は、江戸狩野派による歌人絵のジャンルでのリーダーシップの獲得を告げるものであり、崇徳院の図像に繧繝縁(うんげんべり)の上畳を描き加えることにはそれを象徴する意味があったのである。往時であれば不埒な代物と朝廷から排斥されたであろう江戸狩野派の歌仙絵に公家が喜んで揮毫しているのは、土佐派から江戸狩野派へのリーダーシップの交代に京都側が同意したことを意味している。私は、このことに考えが及んだ時、崇徳院の上畳が投げかけて来た研究の課題にやっと全面的に答えることができたと安堵できたのである。

なお、この時期の京都には、京狩野派の絵師がいた。狩野山楽、山雪、永納と続いた一派であるが、元々豊臣の残党として嫌疑を受け、罪が許された後も冷遇され、大いに沈滞していた[1]。狩野永納には「三十六人歌仙」画帖[2]があり、書は常磐直房と竹中季有とされているが、画風は粗略であり、到底江戸狩野派や土佐派に対抗できるレベルのものではない。また、等伯を祖とする長谷川派もあった。作画の技術においてはそれなりのものがあったが、江戸狩野派には及ばない傍系の流派とされた。


[1] 脇坂淳『京狩野の研究』、中央公論美術出版、平成二十二年。五十嵐公一『京狩野三代 生き残りの物語』、吉川弘文館、平成二十四年。日並彩乃「京狩野のやまと絵について」『文化交渉 東アジア研究科院生論集』第二号、関西大学大学院東アジア文化研究科、平成二十五年、八一頁。

[2] 蔵中スミ『三十六人歌仙(狩野永納画)』、桜楓社、昭和六十二年。

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