幕末の開国以後に、外国のカルタが流入してきた。神戸や横浜の外国人居留地は治外法権地域であり日本の警察権が及ばず、遊郭では遊女も賭博に親しみ、賭博場もあり、そこに日本人客も通っていた。まずは中国の紙牌が使われた。明治五年(1872)に東京の上野で開かれた、翌明治六年(1873)のウイーン万博に出品予定の文物を展示した展覧会では、「西洋カルタ」として中国の紙牌が披露されている。また、横浜の遊郭で遊女がカルタに興じる場面の写真があるが、ここでも手にしているのは黒くて細長い中国の紙牌である。

中国の紙牌(明治六年  ウィーン万博準備展覧会・  最上段中央「西洋のカルタ」)
中国の紙牌(明治六年
ウィーン万博準備展覧会・
最上段中央「西洋のカルタ」)
横浜遊郭遊女カルタ遊技写真  (『幕末明治文化変遷史』、 横濵毎日新報社)
横浜遊郭遊女カルタ遊技写真
(『幕末明治文化変遷史』、 横濵毎日新報社)

一方、西洋カルタ、つまりトランプも居留地経由で日本国内に浸透した。そして、明治十九年(1886)にその販売が公許され、遊技法を示す出版物も多く登場した。時代は鹿鳴館に代表される欧米文化の導入期であり、上流階級の間でも流行した。遊技に用いるカードは、当初はもっぱら国外からの輸入品であり、後に明治三十五年(1902)頃に京都の山内任天堂によって国産品の制作が開始された。その意味では、これは近代のかるた文化の成立を告げる代表的な遊技具であり、江戸かるた文化の残照を扱うこの文章の射程距離外にあるといえる。ここでは、トランプ輸入解禁の前史に触れるにとどめたい。

ここで一つ注目されるのが、このカードの呼称である。周知のようにこの時期に日本では当初これが日本の骨牌に似ているということで「西洋骨牌」と呼んだ。さらに後に「トロンプ」「トランプ」と呼ぶようになったが、それは当時の有力な指導書、東京の團團社が発行した『西洋遊戯かるた使用法』[1]において生じた英語からの誤訳に由来するものであった。これについてはすでに『ものと人間の文化史167 花札』[2]で紹介したので繰り返さない。ここで注目したいのは「西洋カルタ」と「トランプ」の間に短期間存在したこのカードの別称である。特に注目するのは「パース」あるいは「パー」という呼称である。東京を中心にこの呼称が存在したが、その由来は不明である。遊技具の呼称はしばしば遊技法に由来するし、こういう言葉の伝播にはある程度の時間を要するから、明治十九年(1886)の解禁以前の日本に「パース」あるいは「パス」と呼ばれるトランプの遊技法がある程度の広がりで存在したのではないかと推測されるが、そのことを示す史料が見つからない。当時の東京では、鹿鳴館などで、アメリカ留学が長かった山川(大山)捨松、永井(金子)繁子、津田梅子らによって「ホイスト」と呼ばれるトリック・テイキング・ゲームが遊ばれていたとも思われるが、この「ホイスト」と「パース」の関係も分らない。

 漢加斯底爾譯『百科全書 戸内遊戯方』 (文部省、明治十二年)
漢加斯底爾譯『百科全書 戸内遊戯方』
(文部省、明治十二年)

トランプの遊技法の指南書といえば、明治十二年(1879)に文部省が刊行した漢加斯底爾譯『百科全書 戸内遊戯方(インヅール、エミユーズメント)』[3]がある。これは十八世紀イギリスのチェインバーズ兄弟が表した”Chambers’s Information for the people”の”Indoor Amusement”の章の日本語訳であり、翻訳者の漢加斯底爾はオランダ人ファン・カステール(Van Kaster)である。

ファン・カステールの履歴や来日の経緯については、橋本美保の詳細な研究[4]はあるものの、実際は不明な点が多い。とくに、『百科全書』の翻訳に関わるようになった経緯や選抜された理由、また、その仕事 ぶりや出来栄えの評価などについてが分からない。ただ、昭和二十七年(1952)に近代日本での百科事典の導入史を論じた杉村武『近代日本大出版事業史』[5]で明治政府の『百科全書』を扱う際に、「訳者の変わりだねは漢加斯底爾(Van Casteel)で「戸内遊戯方」「体操及戸外遊戯」を担当しているが、これは文部省属のオランダ人で著訳に従事していた。この他「文部省教師必携」「彼氏教授論」の著訳を同省蔵版で出しており、明治初期の啓蒙哲学に間接ではあるが寄与するところのあった人である。わが国のゴルフについて数頁をついやし詳しく紹介したのは「体操及戸外遊戯」が最初であろう」とある。この文章は、その後、昭和四十二年に一般書籍として出版[6]された際にもそのまま残された。また、同じく『百科全書』を研究した長沼美香子『訳された近代 文部省「百科全書」の翻訳学』も、「カステール(一八四三―七八)『体操及戸外遊戯』『戸内遊戯方』翻訳。フルネームは「アブラハム・ティエリー・ファン・カステール」(Abraham Thierry van Casteel)、漢字表記は「漢加斯底爾」。ロッテルダムの裕福な貴族の家柄に生まれた。ジャワ経由で来日し新潟で会社を経営するが、一八七〇(明治三)年に破産。兵部省や豊津藩で語学教師をした後、一八七三(明治六)年から亡くなる一八七八(明治十一)年まで東京の私塾で語学教師。この間に『百科全書』の二冊を含む合計十一冊を翻訳した。」[7]と紹介している。長沼の指摘の論拠はとくには示されていない。

『百科全書』の翻訳出版は政府を挙げての大事業であり、各巻は箕作麟祥を中心に日本人が翻訳に当り、各巻に日本人の校正者が付けられた。英語を理解する人間が不足していたので、いわば英語が分かればだれでもよいという調子で翻訳者が選ばれ、専門外の事項の翻訳を割り当てられることも多く、また、事前の準備が足りなくて訳語の統一を図っていなかったので、同じ言葉が各巻で別異の日本語に訳されており、校正者が「闘牌」を「歌かるた」に換えるなど、苦心を重ねる難事業になった。その中で、なぜかカステール一人だけが外国人であるのに翻訳に参加している。また、カステールにだけは校正者が付けられず、いわばフリーパスであった。こうした破格の処遇が生じたのは、カステールに余人をもってしては代えがたい特別の才能が認められたからであるのか、それとも、「体操及戸外遊戯」と「戸内遊戯」を翻訳できる日本人がいなくて窮余の一策であったのか、さらにあるいは当初予定していた日本人の翻訳者が途中で投げ出して空いた穴をふさぐ応急処置であったのか。これは、西洋かるたという遊技の受容史、その普及度の測定にとってはとても関心が強いポイントなのであるが、残念ながら長沼の研究書もカステールを取り巻いていた事情にまでは筆が及んでいない。

カステールがこの書に取り組む姿勢も、未開の日本に進んだ欧米の遊技文化を教示しようとするものであって、日本社会に存在していたかるた文化への理解はなく、その知識が欠けているために既に日本で用いられていたカルタ遊技用語に翻訳しようという発想もなく、まして、わずかに用いられていたトランプの遊技での用語例の活用もない。したがって、そこには「パース」への言及もないが、そのことはファン・カステールがこの言葉を知らなかったという事実を説明するだけで、それ以上には何も物語ってはいない。

次に注目されるのが、遊技法の「絵取り」である。この遊技は簡単なトリック・テイキング・ゲームであり、四人の参加者が二人ずつでチームを組んで戦うパートナーシップ・ゲームである。勝ち負けはチームで獲得した絵札の枚数の多寡で決まる[8]。ゲームのルールはいくつかの点で日本に固有のものである。そして、明治十年代(1877~86)末期から二十年代(1887~96)の初めにかけて、解禁されたばかりのトランプの遊技法を解説する際には、この「絵取り」が紹介の中心になっていた。解説書の中での「絵取り」の存在感は圧倒的で、これを知らなければトランプを知ったことにならなかった。つまり、この時期には早くも「絵取り」という日本的な遊技法が開発され、普及していたのである。これには相当の時間が必要であるので、「絵取り」は解禁に伴って海外から導入された新遊技法ではなく、以前から日本国内で使われていた遊技法が解説書に掲載されたものと思われる。つまり、トランプ前史の遊技法の主役は「絵取り」であったのだ。

トランプ遊技法解説書  (左:『西洋遊戯かるた使用法』・明治十八年、  中:『西洋かるたの教師』・明治十九年、  右:『遊戯大學・一名かるたの使用』・明治二十一年)
トランプ遊技法解説書
(左:『西洋遊戯かるた使用法』・
明治十八年、
中:『西洋かるたの教師』・明治十九年、
右:『遊戯大學・一名かるたの使用』・
明治二十一年)

島根県雲南市掛合町(かけやまち)には、江戸時代に長崎から伝わったとされている「絵取り」[9]というトランプのゲームがある。江戸時代から西日本の各地に伝わっていた「絵取り」がこの地区では現代まで残ったという珍しい例であるが、これと明治初期の「絵取り」との関係もよく分からない。一足飛びに想像を膨らまして、長崎の丸山遊郭では「絵取り」が遊ばれており、それが掛合町に伝播して残り、また、明治時代になって上方や東京の遊興の場に伝播して、指南書に採録されるようになったという経緯が描ければ嬉しいのであるが、史料はついに見つからず、これを唱えれば単なる想像の告白にしかならないのが残念である。

「新板西洋かるた」  (銀座一丁目八番地、 山崎板、明治二十年代)
「新板西洋かるた」
(銀座一丁目八番地、 山崎板、
明治二十年代)

遊技法で次に注目されるのが、子どもの遊技の御三家、「ババ抜き」「七並べ」「神経衰弱」である。日本では、トランプの遊技というとこの子どもっぽい三種類のそれが盛んであり、総じてトランプという遊技具そのものも子ども用の遊具と理解されがちである。そして、不思議なことに、明治十九年(1886)にトランプの輸入が解禁されると、その一、二年後にはすでに子ども向けに和紙の美濃判一枚に全五十二枚のカードが刷り込まれた、当時流行の花札よりも一回り小さな「西洋かるた」の玩具を見ることができた。これは何軒もの版元から出版されており、当時、少なくとも東京の子どもの間でトランプが新しい玩具として人気を博した事情を知ることができる。トランプが子どもの玩具であるという観念の浸透が早かったことと、子ども向きの簡単な遊技法の御三家が日本のトランプ遊技の中心になり、後にかるた史の研究者、松田道弘が「カード・ゲームの文化だけが、百年ほど前の段階、いわゆるチルドレンズ・ゲームの段階で低迷している」[10]と嘆いたような展開になったこととは深く関係しているように思える。ただし、この点では、文献史料にせよ、物品史料にせよ、いくらでも残っていそうなのであるが、不幸にして私は極めて不十分にしか発見できておらず、この記述も決定的な証拠に欠ける。今後の研究の進展に期待したい。


[1] 團團社『西洋遊戯かるた使用法』、明治十九年。

[2] 江橋崇『ものと人間の文化史167 花札』、法政大学出版局、平成十六年、一九六頁。

[3] 漢加斯底爾譯『百科全書 戸内遊戯方』、文部省、明治十二年。

[4] 橋本美保「明治初期における西洋教育書の翻訳事情―オランダ人ファン・カステールを中心にして―」『日本の教育史学』、教育史学会、平成七年、二四頁。

[5] 杉村武『近代日本大出版事業史』(朝日新聞調査研究室報告社内用 ; 第44)、朝日新聞社、昭和二十八年。

[6] 杉村武『近代日本大出版事業史』、出版ニュース社、昭和四十二年、一五七頁。

[7] 長沼美香子『訳された近代 文部省「百科全書」の翻訳学』、法政大学出版局、平成三十年、九七頁。

[8] 松田道弘『トランプものがたり』岩波新書・黄一〇二、岩波書店、昭和五十四年、二一四頁。77

[9] 赤桐裕二『トランプゲーム大全』、スモール出版、平成二十六年、三〇二頁。

[10] 松田道弘『トランプものがたり』岩波新書・黄一〇二、岩波書店、昭和五十四年、一八一頁。

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