花札の評価は明治初期(1868~77)に大きく変わった。江戸時代には主として女子どもの遊技具として愛好されていたが、幕末期(1854~67)には博徒が主催する賭博場でもこれが用いられるようになった。当初は、骰子賭博に参加する人数が揃って本格的な博奕が始まるまで、早めに到着した客の暇つぶしに使われていたが、その後、カルタ賭博の場で専用のめくり札やかぶ札に代えて花札を用いることが増えた。特に明治前期(1868~87)になると、明治八年(1875)に司法省に問い合わせた千葉県の伺いでは「少年輩ノ雙六ニ用ユル骰子花合ニ用ユル骨牌ヲ売ル者モ罪ヲ問フヘキ筋ニ可有之哉」と花札は少年輩の遊技具扱いであるが、明治十年(1877)の大阪府の伺いでは「茲ニ花合セト唱フル草木百花ヲ画キタル骨牌ヲ売ル者アリ或ハ賭博ニ用ヒ或ハ遊戯ニ用フ右等ハ如何相心得可然哉」であり、子どもの遊戯に用いるが大人の賭博にも用いるとされるようになっている。
つまり、明治十年代(1877~86)には、西日本から多くの兵士や政府の関係者が東上するにつれて、東京や関東地方でも関西風のカルタ賭博が盛んになったが、理由はよくわからないが京都のカルタ屋はそうした賭博に用いる関西の賭博カルタを関東地方に出荷することがなかった。この用具不足を埋めるように花札が用いられたのである。そのためには、花札のカードにめくりカルタやかぶカルタのように数値が与えられなければならず、そこで、松は一、梅は二、桜は三ということになった。この変動が理解しやすいように、この時期の花札には、「一」「二」「三」のような表記または「一月」「二月」「三月」という表記が加えられた。俗な解説書では花札はその発祥期から月順に構成されているように説明されているが、実証性に欠ける。確実な史料が残っているのは明治前期(1868~87)、中期(1887~1902)である。
そして、博徒の横行に手を焼いた政府によって明治十七年(1884)一月に「賭博犯處分規則」(太政官布告第一号)という強力な取締規則が制定され、花札は博徒が賭場で使用する博奕道具というイメージが確立された。