明治年間(1868~1912)に入ると、外国人滞在者と日本社会の接触も密になり、日本人家庭の内側にまで観察の対象がひろまるとともに、日本語を学習してそれに堪能な人間も増えてきて、日本の社会の風俗、習慣に対する理解も深まった。アメリカ人で明治初年(1868~77)に来訪し、福井藩の藩校や東京の大学南校で語学教師を務めたお雇い外国人のウィリアム・エリオット・グリフィス(William Elliot Griffis)は、明治七年(1874)三月に横浜のAsiatic Society of Japanで「日本の児童の遊技と運動」[1]の報告を行い、そのなかで、いろはかるた、百人一首かるた、古今かるた、源氏かるた、詩かるたに言及している。たとえばいろはかるたについてはこう書いている。
グリフィスの理解は一部に誤りもあるがおおむねは正確であり、各種のカルタの遊技法を説明した後でそれの教育上の効果を指摘している。報告の主題が児童の遊戯であるので、大人社会での賭博系のカルタには触れられていないが、そのことによって、日本社会で、またその家庭で使われている各種のカルタを初めて体系的に紹介した功績が損なわれることはない。
いろはがるたは各々に譬えを記載した小さなカードである。譬えは一枚のカードに印刷されていて、もう一枚のカードにはそれを図像化した絵が載っている。譬えは五十音表にあるいろはなどの五十の文字のいずれかで始まる。子供たちは輪を作り、カードは混ぜられて配られる。一人が読み手に指名される。彼は自分の手のカードを見て譬えを読み上げる。その譬えに対応する絵のカードを持つものがそれを引きずり出して合せる。最後のカードを持っていた者が敗者となる。その敗者が男児であれば顔面に墨でおかしなマークが付けられ、女児であれば紙や一握りの藁を髪にひっつけられる。 |
[1] William Elliot Griffis, ”The Games and Sports of Japanese Children.” Transactions of the Asiatic Society of Japan, From 30th October, 1872 to 9th October 1873. 1874, p.140.