この時期に、新流行の花札について、最も本格的に体系を立てて紹介したのがイギリス人の工兵将校で、横浜の公共土木を指揮したヘンリー・スペンサー・パーマー(Henry Spencer Palmer)である。パーマーは、明治二十四年(1891)五月に、日本アジア協会で「花合せ」[1]と題する報告を行った。パーマーは、まず日本のカルタの起源はポルトガルないしスペインのカルタであり、それが日本でUnzui-karutaになり、そこからMekuri-karutaに進化したことを説明し、さらに、グリフィスのカルタに関する記述に言及して、そこでは百人一首、いろはカルタ、詩かるたなどの各種のカルタが扱われているが花札については言及がないことを指摘し、グリフィスの著作の出版後の十数年間に起きた社会の大きな変化と花札の全社会的な流行を説明する。次いでカード上の十二の紋標であるマツ、ウメ、サクラ、フジ、アヤメ、ボタン、ハギ、ススキ、キク、モミジ、ヤナギ、キリの呼称、アヤメの別称のネギ、ススキの別称のボーズないしヤマ、ヤナギの別称のアメないしシグレを紹介し、The Shikö-mono、 The Tö-mono(Iki-mono)、The Tanzaku-mono、The Kasu-mono、つまり「四光もの」「十もの(生きもの」「短冊もの」「カスもの」というランキング、そのカードの点数に言及する。
報告は、次いで、実際のゲームの進行に入り、親の決め方、手札の配布、参加者の中からの「Oya」「Döni」「Biki」、つまり「親」「胴二」「尾季(又は尾来)」いう三人の遊技者の決定に至る過程、手役、出来役、点数の計算を説明して、最後に、花札の遊技の素晴らしさを述べて終わる。
こうしたパーマーの報告の意義は、まず何よりも、花札の遊技法を体系的に説明した点にある。これにより、日本の花札の遊技が始めて外国人にも理解可能なものになったのであるからその意義は大きい。次に、これは必ずしもパーマーが意図したことではないのだが、報告はそのすべてが「八八花」に関するものであり、この真新しい遊技法、それに用いる新意匠のカードに関する最初の報告になっている。ここにはもはや「武蔵野」の時期のカードの説明も、遊技法の説明も全く存在していない。実際に、明治十年代(1877~86)末期の花札の解禁に次いだ急激な大ブームは「八八花」で起きたことであり、パーマーはそうした時代の空気に染まって報告している。
このパーマーの報告を伝える日本アジア協会の協会誌には、報告の末尾に、カラフルな木版印刷で花札の一組四十八枚のカードが掲載されている。木版印刷はカラー印刷機械の技術がまだ十分に発達していなかった当時には、花札の美麗な意匠を伝えるのはベストな選択であり、その美しさには息をのむ。資料として見ても、上に見たレンセラーの著作に掲載された花札の図像が「武蔵野」の最後のきらめきを伝えていたとすれば、パーマーの論文に添付されたカードの図像は、新たに成立した解禁後の「八八花」の最初期の姿を今日に伝えている好例であり、貴重なものといえる。
[1] Henry Spencer Palmer, “Hana-awase”, Transactions of The Asiatic Society of Japan, Vols.19, Hakubunsha, 1891, p.545.