これらの比較から、何点か検討するべき点が見えてくる。

江戸時代中期の「譬え合せかるた」と「明治期譬え合せかるた」を合わせると百十三の諺になる。「譬え合せかるた」では百句が基準の数で有り、盛り込まれる諺に移動があって、新旧合わせて合計で百十三句になるものと考えられる。あるいはそれ以上の変動が有り、その中で現在まで残っているのが百十三句であるという事態であるのかも知れない。

明治期譬え合せかるた・高点札

明治期譬え合せかるた・高点札

「明治期譬え合せかるた」に点数とおぼしき数字の記載がある。「かにはこうに」(蟹は甲に似せて穴を掘る)のカードで点数がわざわざ訂正されているので、ゲームでの働きがある有意味なものと判断される。点数表示では、「是にこりよ」(是に懲りよ道斎坊)のカードと「御用」(御用の銘茶のよう)[1]のカードがともに「三十点」で最高点であり、「是に懲りよ道斎坊」が最高評価であるからこれは「道斎かるた」の遊技に用いられていたカードと思われる。「是にこりよ」と「御用」に次ぐのは「蟷螂が」(蟷螂が斧)、「歌人は」(歌人は居ながら名所を知る)、「けつこう」(結構真赤)の三枚で「十五点」である。各々のカードへの点数の配分はどういう基準であるのか不明である。

明治期譬え合せかるた・役札

明治期譬え合せかるた・役札

「明治期譬え合せかるた」では、「ぬれ手で」(濡手で粟)、「盗人の」(盗人の昼寝もあてがある)、「鬼も十八」(鬼も十八蛇も二十、または、鬼も十八番茶も出ばな)、「同じ穴の」(同じ穴の狐)、「ゆうれいの」(幽霊の浜風)の五枚に点数表示がない。昭和前期(1926~45)の大阪での賭博に関する大阪地検の検事三木今二の記録によると、昭和前期(1926~45)には「鬼も十八」「同じ穴の」「ゆうれいの」の三枚は賭金のやり取りで特別の機能を持つ「消え札」である。明治期(1868~1912)に「消え札」が五枚であったのか、あるいは「ぬれ手で」「盗人の」の二枚に別の機能があったのかは不明であるが、いずれにせよ、この五枚は特別の「役札」であったと考えられる。また、このことにより、「明治期譬え合せかるた」の遊技法と昭和前期(1926~45)の「道斎かるた」の遊技法に類似性が強く感じられて、これもまた、「明治期譬え合せかるた」が「道斎かるた」の遊技に用いられていたという理解を助ける。

 

山城屋版の「道斎かるた」には「□文」という金銭の表示がある。「明治期譬合せかるた」にも同趣旨と思われる数字の表示が有り、三木の記録でも「道斎かるた」の遊技では各々のカードの「文」数は得点計算の基礎になるもので重要な機能があるのだから、表示があって当然であるが、「二文」「三文」と金銭表示があるのは下品である。「文」数の表示は最低が「二文」で、「明治期譬え合せかるた」の点数を二倍程度にしたものが多い。「是にこりよ(是に懲りよ道斎坊)が「二十文」で最高点である。それに次ぐのは「けつかう」(結構真赤)の「十六文」で、さらに「十五文」のカードに「かいるのつらへ」(蛙の面に水)、「むかふししに」(向う猪には矢が立たず)、「やみに」(闇に鉄砲)、「しやの道は」(蛇の道はへび)がある。このうち「かいるのつらへ」「しやの道は」は「明治期譬え合せかるた」では「一点」であり、「むかふ猪に」は「四点」であった。こういう点の低かったカードが大出世した理由は不明である。逆に、「明治期譬え合せかるた」では「是にこりよ」と並んで「三十点」で最高点であった「御用」のカードは消滅しているし、それに次いだ「十五点」のカードの内、「蟷螂が」は「八文」、「歌人は」は「十三文」と降格されている。こうした変動の理由は不明である。

 

山城屋版の「道斎かるた」では、これと逆に、「明治期譬え合せかるた」では「十点」であった「いつも」(いつも正月)のカードが、「いつも正月」と全文表記されて点数の表記がなくなっている。このカードが新たに「役札」になったのであろうか。なお、山口吉郎兵衛が『うんすんかるた』で「道斎かるた」を始めて紹介した際には、「勝てかぶとの」(勝って兜の緒を締めよ)のカードも点数表示がないとしているが、彩色によって見えにくいが「六文」という表記があるので、これは「役札」ではなかろう。

 

山城屋版の「道斎かるた」では、「明治期譬え合せかるた」で「役札」で点数表示がなかった五枚のカードについて、「ぬれ手で」は「四文」、「盗人の」はカードそのものが消滅、「鬼も十八」は「二文」、「同じ穴の」は「三文」、「ゆうれいの」は「二文」と、いずれも低位の「文」数が与えられている。遊技法にどのような変化があった結果であるのかは不明である。

 

山城屋版の「道斎かるた」には、「明治期譬え合せかるた」には存在しない、各カードの番の番号表示がある。これは、読み札と取り札の一致を確認するために必要な表示である。「明治期譬え合せかるた」の時期にはかるたに登場する諺について遊技者の間で共通の了解があって、このような番号表示は不要であったということであろう。山城屋版の「道斎かるた」が制作されたのは「明治廿七年午春」(1894年午(うま)年春)であるから、この時期までに譬えかるたの遊技の衰退が生じていたと思われる。なお、山城屋がかるたに付した番号が、何に基づいてつけられたものであるのかは不明である。

山城屋版の「道斎かるた」には二十九番に「人は武士」という「四文」のカードがある。これは「花はみよしの人は武士」の後半部分であるが、そうだとするとすでに別に二十六番に「花みよしの」という「十二文」のカードがあるので重複になってしまう。それと別に、「人は武士花は桜木」という諺も採用したと考えるより仕方がないが、内容的な重複感は隠しがたい。しかも、「人は武士花は桜木」は、まったくないことではないが例外的な表記であり、本来は「花は桜木人は武士」の後半部分である。山城屋に何か誤解があったのではなかろうか。

 

松井天狗堂版の「道斎かるた」は、このかるた遊技の本場である大阪のかるた屋のものであるから注意して見る必要がある。三木の記録によると、昭和前期(1926~45)の大阪ではこの三十九対・七十八枚のカードを使った賭博が盛んであったようである。このかるた屋は、昭和後期(1945~89)には商売をたたんでいたので、遊技の愛好者は、京都の山城屋の製品を購入して、それが六十二対・百二十四枚であったので、四十六枚を捨ててから遊技に用いていたのであろう。この松井天狗堂でも「道斎かるた」を制作していたという話は、山城屋の主人からは全く聞いたことがなかった。同じ業界のわずか数十年以前のできごとを知らないというのも不自然な話であり、山城屋の専売権が自店にあるという主張と食い違うので無視したのであろうか。今となっては確かめようもない。

「提灯に釣鐘」札

「提灯に釣鐘」札、 左は松井天狗堂、右は山城屋。

松井天狗堂版の「道斎かるた」は山城屋版の「道斎かるた」のコピー商品である。採用されている三十九の諺はいずれも山城屋版「道斎かるた」に採用されていたものであり、読み札の文字、字配りなどもそっくり同じである。ただ、これだけであると、逆に松井天狗堂版の方が元祖で、山城屋版がそれを真似して作ったときに、大幅に諺を増やしたという経過もあり得る。この点で決定的なのは「ちやうちんに」(提灯に釣鐘)の絵札である。松井天狗堂版は、提灯に同店の四角に松の屋号を入れたが、上に施す銀彩の版木は山城屋の丸に十の屋号のものを使っていて、従ってそれは、図柄は松井天狗堂版、銀彩は山城屋版という奇妙なものに仕上がっている。だがこの誤りによって、松井天狗堂版が山城屋版を真似たという両者の間の前後関係が明確になったのが、怪我の功名なのか、とんだところでしっぽが露見なのかは知らないが、研究上は助かる。

 

松井天狗堂版の「道斎かるた」は、三十九番までの譬えのうちで、山城屋版の「道斎かるた」で四十番以降の譬えが十二点採用されている。これに伴い、この十二点においては、カードに付された順番の表示が変更されている。こうした入れ替えが生じた理由は不明である。

 

これらのかるたには「白札」が付いている。「明治期譬え合せかるた」の場合は黒裏カードが十枚、赤裏カードが十枚で、黒裏のカードには「壱」「二」から「九」「十」、赤裏のカードには「壹」「貳」から「九」「拾」までの数字が書き込まれている。この数字が、制作者が書き入れたのか、制作時は「白札」であったものに後に購入者が書き入れたのかは不明である。山城屋版の「道斎かるた」では黒裏の「白札」、赤裏の「白札」ともに六枚ずつで、松井天狗堂版の「道斎かるた」の場合は「白札」が七枚ずつである。三木の記録では、その用途が十一枚分説明されている。「明治期譬え合せかるた」の場合の使用法は不明である。

 

山城屋が商売をたたんだ後に、京都の松井天狗堂(上掲の大阪の松井天狗堂とは別の店)が「手刷り道才」を制作した。同店は、明治年間(1868~1912)に同店で制作した際の版木が残っていたのでそれに基づいて制作した同店にオリジナルな「道斎かるた」であると主張するが親戚の大坂の松井天狗堂の由緒を借りた怪しげな説明である。同店の版木というものも見せてもらったことはない。これは様々な理由で山城屋のかるたの粗雑な模倣品と判断される。この「手刷り道才」は、機械印刷の図像の上に合羽摺の手彩色を施してあるが、山城屋版を真似しただけなので図像としての完成度が低く、とくに「猫に小判」の絵札では猫が口にくわえているものが小判であることが理解できなかったようで意味不明の図像になっている。手彩色も色が貧弱であるし粗雑な細工である。これは観光土産品の類の参考品である。

 

山城屋版の「道斎かるた」の最終期に山城屋の主人、山城吾郎に聞いたところでは、顧客は京都三条の賭場の関係者と、大阪の高齢女性のグループだけであるということであり、両者はいずれも山城屋の廃業によるカードの供給の停止にともない消滅している。松井天狗堂の主人、松井重夫に聞いたところでも、これらのグループが山城屋の廃業後に代替品を同店に発注したとか、同店で購入したとかいう事実はなかった。結局、京都の松井天狗堂版の「手刷り道才」は実際には遊技者の需要に応えておらず、一部のコレクターが買い求めた以上には売れなかったものであり、これを「道斎かるた」の一例として位置づけることはできないし、比較研究に使う史料的な価値はとくには認められない。

 


[1]御用の銘茶のように、としたが不確かである。

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