四 宮廷絵画の世界での幕府による覇権の確立 (三)元禄年間に起きたかるた図像の転換 私は、崇徳院の上畳の問題をこういう文化史の背景の中で理解するようになった。後水尾朝廷が崇徳院を「廃帝」として上皇位から追放し、幕府がそれを良しとせず、暗黙裡にそれを是正して上皇とするように求めたという、元禄年間(1688~1704)に至る江戸時代初期、前期の歌人絵をめぐる歴史的な事情、文化的な背景を見据えたうえでの理解... 館長
四 宮廷絵画の世界での幕府による覇権の確立 (二)幕府の文治政策と江戸中心の文化の創出 北村季吟(江戸時代前期) これに代えて幕府が行ったのが、天皇の有する文化的な権威を幕府に吸収し、文化的な意味での首都を京都から江戸に移す文治政治の展開である。文化面での主導権の奪取は着実に進み、儒学での林羅山、仏教での崇伝や天海、輪王寺宮(日光御門主)、歌学での細川幽斎や北村季吟らによって、文化の中心が京都から江戸に移... 館長
四 宮廷絵画の世界での幕府による覇権の確立 (一)徳川の血筋による皇位創出の挫折 この際、更にもう一歩を進めておこう。幕府は、なぜ江戸狩野派の歌仙絵を高く評価して受容したのか、である。その背景には幕府による文化政策、文化における主導権の掌握という政策の進展がある。徳川家康が関ケ原の合戦の勝利で天下人になってから試みたのは、下剋上で主家を圧倒して成立した新政権の内部での新たな下剋上の発生を防止して、政... 館長