三 日本軍内部での花札 (二)敗戦、帝国陸海軍の崩壊、難民化した日本人と花札 戦争中に軍隊で花札に耽った経験は、そう簡単には消え去らない。第二次大戦の末期にソロモン群島ブカ島では、戦意を喪失した日本軍の兵士はアメリカ軍が蒔いた伝単(宣伝ビラ)を拾い集めて貼り合わせて手製の花札を作って日夜遊技に耽っていた。戦争中に米軍の捕虜になった者や、戦後に投降して収容所に入れられた旧軍人・兵士が苦労して手製の... 館長
三 日本軍内部での花札 (一)「軍艦花」の不思議 花札は大日本帝国の陸海軍でも盛んに使用された。古く日清戦争の際に、戦地で花札を行商して大儲けした人がいた。戦時には、兵士とともに物資の輸送などに当たる軍属、軍夫も大量に戦地に派遣されるので、こうした肉体労働者が慰安のために花札で遊ぶことが多かったようである。帝国陸海軍としても、これが公然とした賭博行為に発展しない限り黙... 館長
二 大日本帝国の植民地経営における花札の活用 (四)植民地における「歌合せかるた」 大日本帝國の対外膨張を考える時にもう一つ気になるのは、和歌の「歌合せかるた」である。それには、明治時代からの和歌の政治的活用の経緯が関係する。 明治時代になって、近代的な国家の枠組みを形成する際に、人々が「国民」という一つの塊に属していることを自覚させ、そこから国とその頂点に立つ天皇への忠誠と協力を確保する国民文化を創... 館長
二 大日本帝国の植民地経営における花札の活用 (三)租借地、関東洲における「大連花」の流行 「大連花」 花札は日露戦争とその後の満洲の支配においても活用された。新たに租借地となった関東州には骨牌税の適用はなく、また、それに代わるローカルな法令も作られなかったので花札は無税で販売されて有利だった。この地でも、またここを根拠地として北に広がって行った満洲各地でも花札は盛んに遊ばれた。そのうちに、図像にささいな変化... 館長
二 大日本帝国の植民地経営における花札の活用 (二)植民地朝鮮における花札の流行 「北海花」に続いて大きく発達したのが「朝鮮花」である。この地においては、明治二十七、八年(1894~95)の日清戦争において、この地を制圧した日本軍の兵士や軍属、軍夫が花札を大量に持ち込んだ。これが朝鮮における花札の始まりであるが、その後も日本のカルタ屋が現地に芽生えた需要を狙って輸出を試みていた。そこに生じたのが明治... 館長
二 大日本帝国の植民地経営における花札の活用 (一)日本の植民地における花札 大日本帝国は活発に領域の拡大を追求して、大国になっていった。その際に対外膨張の最前線は、日本軍の軍事行動と土木工事への兵站を担った軍属、軍夫、土建業者、鉱物資源採掘関連の鉱業者で占められていた。そのためには、軍の物資の輸送や鉱工業、土木工事の展開のために「軍夫」として大量の労働者が送りこまれ、そして、そういう現場では、... 館長
一 近代日本人の対外進出と花札 (三)「総理大臣の花かるた」の正体 ちょうどこの時期、明治三十四年(1901)から三十五年(1902)にかけて伊藤博文が欧米を視察する旅行に出かけていたことはすでに述べた。その際に伊藤は土産品としてこうした大型の花札を何組か購入したようである。この話が販売したカルタ屋の側では、伊藤博文が特別注文でごく少数を製作させて買い上げた一社限りの貴重な限定版だとい... 館長
一 近代日本人の対外進出と花札 (二)ハワイの日本人移民と花札 花札を実際に遊技具として多く使ったハワイでは、日本人移民の増加と共に花札が持ち込まれた。たまたま熊本県出身の移民が多かったので、ハワイの花札の遊技法は熊本風になった。熊本の地方ルールでは、短冊札が十点で生き物札が五点なので、ハワイの花札のルールでもこのようになっている。この地で用いられた花札は「八八花札」であった。日露... 館長
一 近代日本人の対外進出と花札 (一)日本製のかるたの対外進出 江戸時代末期(1854~67)の開国以降、日本国内は押し寄せる西欧の文化に翻弄されて嵐のような変革に直面したが、他方で、いち早く日本人の海外への進出も生じた。真っ先に生じたのは、外国人商人による男女の日本人奴隷の輸出であった。国内での人身売買が年季奉公として認められていたのであるから、その延長線上に、海外の職場での年季... 館長