(一)「道斎かるた」の発見

かつて「いろは譬え合せかるた」の研究史では、江戸時代中期(1704~89)に活発に使われていた五十句一組、正続合わせて百句一組の木版摺り「譬え合せかるた」が、江戸時代後期(1789~1854)のはじめ、遅くも文化文政年間(1804~30)までにそれをいろは四十八句に整序した「いろは譬え合せかるた」に交代、変身したという理解が圧倒的であった。つまり、旧来の「譬え合せかるた」はこの時期に滅んだという理解である。この通説を支えたのは、江戸時代後期(1789~1854)以降には「譬え合せかるた」は現物もそれに触れる文献も一切存在しないという不在の証明にあった。

ところが山口吉郎兵衛は、明治年間(1868~1912)に「譬え合せかるた」である「道斎かるた」が関西で賭博の遊技に用いられていることを発見し、それを『うんすんかるた』で詳細に紹介した[1]。さらに昭和後期(1945~89)になって、この「道斎かるた」が京都のカルタ屋「山城屋」で現に制作されていることが知られるようになった。山城屋の主人、山城吾郎が語る「道斎かるた」の歴史、それが同店の独占商品として江戸時代より認められていたこと、明治三十五年(1902)の骨牌税の創設に際して当時の山城屋の主人が奮闘してこれを課税対象から除外させたことは業界の歴史実話として通用し、これをよく使った森田誠吾によって、「いろは譬え合せかるた」史が書き改められた。

道斎かるた(山城屋、昭和後期)

私は、山城屋にもしばしば参上し、主人の話も詳細に聞いたし、残されていた「道斎かるた」の現物も分けてもらっていた。だが、山城屋の語る業界神話には疑問があった。まず、第二次大戦前に大阪の検事をしていて賭博犯罪取り締まりに辣腕を振るい、戦後はカルタ屋の任天堂の顧問弁護士になって取締当局との摩擦の調整に当たった三木今二は、昭和期の阪神地域で「道斎かるた」がなお賭博に用いられていることを指摘し、その遊技法を詳細に紹介した[2]。そこで奇妙なのは、紹介されている阪神地域の「道斎かるた」が山城屋のものとは使用するカードの数などに微妙な違いがあることであった。当初私は、阪神地域でも京都の山城屋の「道斎かるた」で遊技を行っていたと理解していたが、のちに、大阪の松井天狗堂が昭和前期(1926~45)に制作した「道斎かるた」を大阪市内の子孫方で発見し、それが基本的には山城屋のものの図柄を模倣しているが、カードの枚数や番号のつけ方が微妙に違い、それが三木の紹介したものと一致していることを知った。つまり、三木が紹介した阪神地域の「道斎かるた」賭博では、京都の山城屋版ではなく、地元大阪の松井天狗堂版のものを使っていたのである。山城屋の独占的な供給という神話は同店が他店の参入を嫌って流布した自店の権益を守るための神話であったのだ。

道斎かるた(松井天狗堂(大坂)、昭和前期)

次いで私は、幕末期(1854~68)の京都で「道斎かるた」の販売を禁止した禁令[3]を発見した。これが、文献史料上で「道斎かるた」という語が登場する最初の例であろうと思われる。ここでも「道斎かるた」は普通に通用しているかるたの一般的な名称であって、一軒のかるた屋が独占する商品の固有名詞ではない。山城屋の独占権の話はここでも疑わしい。

そして決定的であったのは、明治前期(1868~87)の、手描きの「譬え合せかるた」を発見したことである。カードの大きさは縦六・六センチ、横四・八センチであり、江戸時代からの「絵合せかるた」の様式を忠実に受け継いでおり、卑俗な「道斎かるた」とは一線を画していて、普通に遊技具として使われていたであろうことを思わせる。つまり、「譬え合せかるた」は、江戸時代後期(1789~1854)どころか、明治時代(1868~1912)まで生き延びていたのであり、その一亜種が山城屋の「道斎かるた」であったのだ。江戸時代に「譬え合せかるた」は滅び、それ以後は山城屋だけに独占的な制作、販売権が認められており、それが「道斎かるた」なのであるという話は史実に反した神話である。

一方、文献史料の面では、諺史研究者の北村孝一により、決定的な指摘があった。北村は江戸時代後期(1789~1854)の文芸作品中で、なお「譬え合せかるた」が遊技に使われ続けていた事例を複数発見して、報告したのである[4]。これにより、「譬え合せかるた」から「いろは譬え合せかるた」への交代、変身という交代説は文献史料上も明確に否定されたのである。なお、明治年間(1868~1912)にはまだ「譬え合せかるた」が実在していたのであるから、まだこういう神話が唱えられる余地はなく、従ってこれは、昭和年間(1926~89)に入ってからの、比較的に若い創作であると思われた。

こうして、「譬え合せかるた」の歴史については、非常にか細い史料の裏付けしか見つけることができなかったのであるが、次のように考えられるようになった。それは、江戸時代前期(1652~1704)、遅くも元禄年間(1688~1704)までに一組百句で高級な手描きかるたの一種として京都ないし大坂で作られるようになり、江戸時代中期(1704~89)に大坂で木版のかるたが正続各々五十句、合計百句一組のものとして成立し、江戸時代後期(1789~1854)に「いろは譬え合せかるた」が登場して人気はそちらに奪われたものの、「いろは譬え合せかるた」は子どもの遊技具に特化する一方で「譬え合せかるた」は大人の遊技具として用い続けられ、明治時代(1868~1912)にも、昭和時代(1916~89)にも、一部の賭博遊技仲間の間で用いられ続けてきたのである。


[1] 山口吉郎兵衛、『うんすんかるた』リーチ(私家版)、昭和三十六年、一六一頁。

[2] 三木今二『司法警察官訓練教材 賭博について』大阪地方裁判所検察局、昭和十二年。同『とばくの栞』私家版、昭和十二年。

[3] 京都町触研究会編『京都町触集成』第十一巻、昭和六十一年、三四二頁。

[4] 北村孝一「『たとへかるた』の流行と衰退」『第11回ことわざフォーラムプログラム』ことわざ研究会、平成十一年。