江戸時代中期(1704~89)に、フィッシング・ゲームを一組四十八枚の海外から伝来のカルタでも行おうという機運が生じた。日本式かるたと伝来のカルタの境界線でいえば、日本式かるたの一種である「花合せ」かるたの遊技法が一歩を踏み出してその線を超え、伝来のカルタの世界に入った遊技法が、フィッシング・ゲームの「てんしょ(合せ)」である。このフィッシング・ゲームを当時の人々は「合せ」とか「てんしょ」と呼んだ。これが、後に江戸で流行した「めくりカルタ」の前身、「プロトめくり」の遊技である。

私は、絵合せかるた類似の遊技を伝来のカルタ札を使って行うことが人々に受け入れられて「プロトめくり」の遊技法が人気を博するのには、四枚絵合せかるたの登場から相当の時間をかけて納得を得る必要があったのだろうと思う。そもそもどんな場合でも、新種の遊技法の誕生にはそれなりの社会的な背景とそれ以前の遊技法からの発展の道筋があるのであって、それなしに、突然に新種の遊技法が生まれて流行するという事態は極めて稀である。「プロトめくり」が登場するにも、それなりの前史があり、それなりの時間がかかっていると思われる。

また、新種の遊技法が広く社会に受容されるのには、強力な発信源が必要である。江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)にこういう賭博色のある遊技を発信できた場所と言えば、それはやはり京都の色町、六條、島原、そして祇園などであろう。その伝統は後の時代に江戸の吉原に引き継がれている。江戸時代の社会では、遊里が新しい遊技文化の有力な発信源の一つであった。遊里で遊女が客と遊ぶことで人々の間に知られ、広まるようになったものと思われる。この情報拠点からの自然な情報の流出には相当の時間が必要であり、私は、遊里が大いに栄えた元禄年間(1688~1704)の社会でなければそれは叶わなかったのではないかと考えている。

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